の大きさになる。ところどころに茶摘《ちゃつ》みをする女の赤い襷《たすき》と白い手拭いとが見え、裸で茶を製している茶師《ちゃし》の唄が通りに聞こえた、志多見原《したみはら》にはいちやくそう、たかとうだいなどの花があった。やがて麦の根元《ねもと》は黄《き》ばみ、菖蒲《あやめ》の蕾《つぼみ》は出で、樫《かし》の花は散り、にわやなぎの花は咲いた。蚕《かいこ》はすでに三眠《さんみん》を過ぎた。
 続いてしらん、ぎしぎし、たちあおい、かわほね、のいばら、つきみそう、てっせん、かなめ、せきちくなどが咲き、裏の畑の桐の花は高く薫《かお》った。かや、あし、まこも、すげなどの葉も茂って、剖葦《よしきり》はしきりに鳴く。
 金州《きんしゅう》の戦い、大連湾《たいれんわん》の占領――第三軍の編制、旅順の背面《はいめん》攻撃。
「敵も旅順は頑強《がんきょう》にやるつもりらしいですな。どうも海軍だけではだめのようですな」などと校長が言った。旅順の陥落《かんらく》についての日が同僚の間に予想される。あるいは六月の中ごろといい、あるいは七月の初めといい、あるいは八月にはどんなにおくれても取れるだろうと言った。やがて鶏一羽と鶏卵《たまご》十五個の賭《かけ》をしようということになる。そして陥落の公報が達した日には、休日であろうがなんであろうが、職員一統学校に集まって大々的祝宴会を開こうと決議した。
 六月にはいると、麦は黄熟《こうじゅく》して刈り取られ、胡瓜《きゅうり》の茎《くき》短《みじか》きに花をもち、水草のあるところには螢《ほたる》が闇《やみ》を縫って飛んだ。ほそい、ゆきのした、のびる、どくだみ、かもじぐさ、なわしろいちご、つゆぐさなどが咲いた。雨は降っては晴れ、晴れてはまた降った。ある日、美穂子の兄からめずらしくはがきが届いた。かれは士官学校を志願したが、不合格で、今では一年志願兵になって、麻布《あざぶ》の留守師団《るすしだん》にいた。「十中八九は戦地におもむく望みあり、幸いに祝せよ」と得意そうに書いてあった。それに限らず、かれは野から畠から町から鋤犁《すきくわ》を捨て算盤《そろばん》を捨て筆を捨てて国事におもむく人々を見て、心を動かさざるを得なかった。海の外には同胞が汗を流し血を流して国のために戦っている。そこには新しい意味と新しい努力がある。平生《へいぜい》政見を異にした政治家も志を一にして公《こう》に奉じ、金を守るにもっぱらなる資本家も喜んで軍事公債に応じ、挙国一致、千載一遇《せんざいいちぐう》の壮挙は着々として実行されている。新聞紙上には日ごとに壮烈なる最後をとげた士官や、勇敢なる偉勲《いくん》を奏した一兵士の記事をもって満たされ、それにつづいて各地方の団隊の熱心なる忠君愛国の状態が見るように記されてある。「自分も体《からだ》が丈夫ならば――三年前の検査に戊《ぼ》種などという憐むべき資格でなかったならば、満洲の野に、わが同胞とともに、銃を取り剣をふるって、わずかながらも国家のためにつくすことができたであろうに」などと思うことも一度や二度ではなかった。かれはまた第二軍の写真班の一員として従軍した原杏花《はらきょうか》の従軍記のこのごろ「日露戦争実記」に出始めたのを喜んで読んだ。恋愛を書き、少女を描《えが》き、空想を生命とした作者が、あるいは砲煙《ほうえん》のみなぎる野に、あるいは死屍《しし》の横たわれる塹壕《ざんごう》に、あるいは機関砲のすさまじく鳴る丘の上に、そのさまざまの感情と情景を叙《じょ》した筆は、少なくともかれの想像をそこにつれて行くのに十分であった。三年前にイタリヤンストロウの意気な帽子をかぶって、羽生の寺の山門からはいって来たその人――酔って詩を吟じて、はては本堂の木魚《もくぎょ》や鐘をたたいたその人が、第二軍の司令部に従属して、その混乱した戦争の巴渦《うずまき》の中にはいっているかと思うと、いっそうその記事がはっきりと眼にうつるような気がする。急行軍の砲車、軍司令官の戦場におもむく朝の行進、砲声を前景にした茶褐色《ちゃかっしょく》のはげた丘、その急忙《きゅうぼう》の中を、水筒を肩からかけ、ピストルを腰に巻いて、手帳と鉛筆とを手にして飛んで歩いている一文学者の姿をかれはうらやましく思った。
 ある日|和尚《おしょう》さんに、
「原さんからもお便りがありますか」
 と聞くと、
「え、この間金州から絵葉書が来ました」
 と和尚さんは机の上から軍事郵便と赤い判の押してある一枚の絵ハガキを取って示した。それには同じく従軍した知名な画家が死屍《しし》のそばに菖蒲《あやめ》が紫に咲いているところを描いていた。
「いい記念ですな」
「え、こういう花がたくさん戦場に咲いてるとみえますな」
「戦記にも書いてありましたよ」
 と清三は言った。

    
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