かれらが「般若《はんにゃ》」という綽名《あだな》を奉《たてまつ》った小使がいた。舎監《しゃかん》のネイ将軍もいた。当直番に当たった数学の教師もいた。二階の階段、長い廊下、教室の黒板、硝子窓から梢だけ見える梧桐《あおぎり》、一つとして追懐《ついかい》の伴わないものはなかった。かれらはその時分のことを語りながらあっちこっちと歩いた。
 当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れる限りを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。三人は講堂に行ってオルガンを鳴らしたり、運動場に出てボールを投げてみたりした。
 別れる前に、三人は町の蕎麦屋《そばや》にはいった。いつもよく行く青柳庵《せいりゅうあん》という家である。奥の一間はこざっぱりした小庭に向かって、楓《もみじ》の若葉は人の顔を青く見せた。ざるに生玉子、銚子《ちょうし》を一本つけさせて、三人はさも楽しそうに飲食した。
「この間、小滝に会ったぜ!」小畑は清三の顔を見て、「先生、このごろなかなか流行《はや》るんだそうだ。土地の者では一番売れるんだろうよ。湯屋の路地を通ると、今、座敷に出るところかなんかで、にこにこしてやって来たッけ」
「林さんは? ッて聞かなかったか?」
 かたわらから桜井が笑いながら言った。
 清三も笑った。
「Yはどうしたねえ」
 清三は続いて聞いた。
「相変わらずご熱心さ」
「もうエンゲージができたのか」
「当人同士はできてるんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ」
「おもしろいことになったものだねえ」と清三は考えて、「YはいったいVのラヴァだったんだろう。それがそういうふうになるとは実際運命というものはわからんねえ」
「Vはどうしたえ」と桜井が小畑に聞く。
「先生、足利に行った」
「会社にでも出たのか」
「なんでも機業会社とかなんとかいうところに出るようになったんだそうだ」
 三人はお代わりの天ぷら蕎麦《そば》を命じた。
「Art の君はどうした?」
 小畑がきいた。
「浦和にいるよ」
「それは知ってるさ。どうしたッて言うのはそういう意味じゃないんだ」
「うむ、そうか――」と清三はうなずいて、「まだ、もとの通りさ」
「加藤も臆病者だからなア」
 と小畑も笑った。
 一本の酒で、三人の顔は赤くなった
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