もち》も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼《めぬま》地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭《らっぱ》の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。
 町は清三にとって第二の故郷である。八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小路《こうじ》の奥に一家はその落魄《らくはく》の身を落ちつけた。その小路はかれにとっていろいろな追憶《おもいで》がある。そこには郵便局の小使や走り使いに人に頼まれる日傭取《ひようと》りなどが住んでいた。山形あたりに生まれてそこここと流れ渡ってきても故郷の言葉が失せないという元気なお婆さんもあった。八歳から十七歳まで――小学校から中学の二年まで、かれは六畳、八畳、三畳のその小さい家に住んでいた。小学校は町の裏通りにあった。明神《みょうじん》の華表《とりい》から右にはいって、溝板《どぶいた》を踏《ふ》み鳴らす細い小路を通って、駄菓子屋の角《かど》を左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階造りの建物と鞦韆《ぶらんこ》や木馬のある運動場が見えた。生徒の騒ぐ音がガヤガヤと聞こえた。
 校長の肥った顔、校長次席のむずかしい顔、体操の先生のにこにこした顔などが今もありありと眼に見える。卒業式に晴衣《はれぎ》を着飾ってくる女生徒の群れの中にもかれの好きな少女が三四人あった。紫の矢絣《やがすり》の衣服《きもの》に海老茶《えびちゃ》の袴《はかま》をはいてくる子が中でも一番眼に残っている。その子は町《まち》はずれの町から来た。農学校の校長の娘だということを聞いたことがある。清三が中学の一年にいる時一家は長野のほうに移転して行ってしまったので、そのあきらかな眸《ひとみ》を町のいずこにも見いだすことができなくなったが、それでも今も時々思い出すことがある。一人は芸者屋の娘で、今は小滝《こたき》といって、一昨年《おととし》一本になって、町でも流行妓《はやりっこ》のうちに数えられてある。通りで盛装《せいそう》した座敷姿《ざしきすがた》にでっくわすことなどあると、「失礼よ、林さん」などとあざやかに笑って挨拶して通って行く。中学卒業の祝いの宴会にも
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