「林さんは弥勒《みろく》のほうにお出になりましたッてな、まア結構でしたな……母《おっか》さん、さぞおよろこびでしたろうな」
 こんなことを言った。
 浦和にいる美穂子のうわさも出た。
「女がそんなことをしたッてしかたがないッて父親《ちち》は言いますけれどもな……当人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできんのは知れてるですけど……」
「でもお変わりはないでしょう」
 清三がこうきくと、
「え、もう……お転婆《てんば》ばかりしているそうでな」と母親は笑った。
 すぐ言葉をついで、今度は郁治に、
「雪さんどうしてござるな」
「相変わらずぶらぶらしています」
「ちと、遊びにおつかわし。貞も退屈しておりますで……」
 それこれするうちに、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨《ほおぼね》の出た男で、手織りの綿衣《わたいれ》に絣《かすり》の羽織を着ていた。話のさなかにけたたましく声をたてて笑う癖《くせ》がある。石川や清三などとは違って、文学に対してはあまり興味をもっていない。学校にいたころは、有名な運動家でベースボールなどにかけては級《クラス》の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志願で、卒業するとすぐ熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じてみたが、数学と英語とで失敗した。けれどあまり失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、しかるべき学校にはいって、十分な準備をすると言っている。
 三人は胸襟《きょうきん》を開いて語り合った。けれどここで語る話と清三と郁治と話す話とは、大いに異なっていた。同じ親しさでも単に学友としての親しさであった。打ち解けて語ると言っても心の底を互いに披瀝《ひれき》するようなことはなかった。
 ここでは、学校の話と将来の希望と受験の準備の話などが多く出た。北川は東京で受けた士官学校入学試験の話を二人にして聞かせた。「どうも試験に余裕がなくって困った。英語の書き取りなど一度しか読んでくれないんだから困るよ。それに試験の場所が大きく広すぎて、声が散ってよく聞きとれないんだから、ドマドマしてしまったよ。おまけに代数がばかにむずかしかった」
 代数の二次方程式の問題をかれは手帳に書きつけてきた。それを机の抽斗《ひきだ》しやら押入れの中やら文庫の中やらあっちこっちとさがし回って、ようやくさがし出して二人
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