牌《かんばん》がかかっていて、旧式な手刷りが一台、例の大きなハネ[#「ハネ」に傍点]を巻《ま》き返《かえ》し繰り返し動いているのが見える。広告の引《ひ》き札や名刺が主《おも》で、時には郡役所警察署の簡単な報告などを頼まれて刷《す》ることもあるが、それはきわめてまれであった、棚に並べたケースの活字も少なかった。文選も植字も印刷も主《あるじ》がみな一人でやった。日曜日などにはその弟が汚れた筒袖《つつそで》を着て、手刷り台の前に立って、刷《す》れた紙を翻《ひるがえ》しているのをつねに見かけた。
 金持ちの息子《むすこ》と見て、その小遣いを見込んで、それでそそのかしたというわけでもあるまいが、この四月の月の初めに、機山がこの印刷所に遊びに来て、長い間その主人兄弟と話して行ったが、帰る時、「それじゃ毎月七八円ずつ損するつもりなら大丈夫だねえ、原稿料は出さなくったって書《か》き手はたくさんあるし、それに二三十部は売れるアね」と言った顔は、新しい計画に対する喜びに輝いていた。「行田文学」という小雑誌を起こすことについての相談がその連中の間に持ち上がったのはこれからである。
 機山がその相談の席で、
「それから、羽生《はにゅう》の成願寺《じょうがんじ》に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家で、新体詩じゃ有名な人だから、まず第一にあの人に賛成員になってもらうんだね。あの人から頼んでもらえば、原香花《はらきょうか》の原稿ももらえるよ」
「あの古城ッていう人はここの士族だッていうじゃないか」
「そうだッて……。だから、賛成員にするのはわけはないさ」
 ちょうど清三が弥勒《みろく》に出るようになった時なので、かれがまずその寺を訪問する責任を仲間から負わせられた。
 その夜、「行田文学」の話が出ると、郁治が、
「寄ってみたかね?」
「あいにく、雨に会っちゃッたものだから」
「そうだったね」
「今度行ったら一つ寄ってみよう」
「そういえば、今日|荻生《おぎゅう》君が羽生に行ったが会わなかったかねえ」
「荻生君が?」と清三は珍しがる。
 荻生君というのは、やはりその仲間で、熊谷の郵便局に出ている同じ町の料理店の子息《むすこ》さんである。今度羽生局に勤めることになって、今車で行くというところを郁治は町の角《かど》で会った。
「これからずッと長く勤めているのかしら」

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