も、そういう消極的な考えには服従していられないねえ」
「じゃ、どんな境遇からでも、その人の考え一つで抜け出ることができるというんだねえ」
「そうさ」
「つまりそうすると、人間万能論だね、どんなことでもできないことはないという議論だね」
「君はじきそう極端に言うけれど、それはそこに取り除《の》けもあるがね」
 その時いつもの単純な理想論が出る。積極的な考えと消極的な考えとがごたごたと混合して要領を得ずにおしまいになった。
 かれらの群れは学校にいるころから、文学上の議論や人生上の議論などをよくした。新派の和歌や俳句や抒情文などを作って、互いに見せ合ったこともある。一人が仙骨《せんこつ》という号をつけると、みな骨という字を用いた号をつけようじゃないかという動議が出て、破骨《はこつ》だの、洒骨《しゃこつ》だの、露骨《ろこつ》だの、天骨《てんこつ》だの、古骨《ここつ》だのというおもしろい号ができて、しばらくの間は手紙をやるにも、話をするにも、みんなその骨の字の号を使った。古骨というのは、やはり郁治や清三と同じく三里の道を朝早く熊谷に通《かよ》った連中《れんちゅう》の一人だが、そのほんとうの号は機山《きざん》といって、町でも屈指《くっし》の青縞商《あおじましょう》の息子で、平生《へいぜい》は角帯《かくおび》などをしめて、つねに色の白い顔に銀縁《ぎんぶち》の近眼鏡をかけていた。田舎《いなか》の青年に多く見るような非常に熱心な文学|好《ず》きで、雑誌という雑誌はたいてい取って、初めはいろいろな投書をして、自分の号の活字になるのを喜んでいたが、近ごろではもう投書でもあるまいという気になって、毎月の雑誌に出る小説や詩や歌の批評を縦横にそのなかまにして聞かせるようになった。それに、投書家|交際《づきあい》をすることが好きで、地方文壇の小さな雑誌の主筆とつねに手紙の往復をするので、地方文壇|消息《しょうそく》には、武州行田《ぶしゅうぎょうだ》には石川|機山《きざん》ありなどとよく書かれてあった。時の文壇に名のある作家も二三人は知っていた。
 やはり骨の字の号をつけた一人で――これは文学などはあまりわかるほうではなく、同じなかまにおつき合いにつけてもらった組であるが、かれの兄が行田町に一つしかない印刷業をやっていて、その前を通ると、硝子戸の入り口に、行田印刷所と書いたインキに汚れた大きい招
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