かんにした。清三は行田から弥勒《みろく》に帰る途中、そうした壮丁に幾人《いくたり》もでっくわした。
旅順《りょじゅん》仁川《じんせん》の海戦があってから、静かな田舎《いなか》でもその話がいたるところでくり返された。町から町へ、村から村へ配達する新聞屋の鈴の音は忙しげに聞こえた。新聞紙上には二号活字がれいれいしくかかげられて、いろいろの計画やら、風説やらが記《しる》されてある。十二日は朝から曇った寒い日であったが、予想のごとく、敵の浦塩艦隊《うらじおかんたい》が津軽海峡《つがるかいきょう》に襲来《しゅうらい》して、商船|奈古浦丸《なこのうらまる》を轟沈《ごうちん》したという知らせが来た。その津軽海峡の艫作崎《へなしざき》というのはどこに当たるか、それをたしかめるため、校長は教授用の大きな大日本地図を教員室にかけた。老訓導も関さんも女教師もみなそこに集まった。
「ははア、こんなところですかな」
と老訓導は言った。
清三は浦塩《うらじお》から一直線にやって来た敵の艦隊と轟沈《ごうちん》されたわが商船とを想像して、久しくその掛け図の前に立っていた。
湯屋でも、理髪舗《とこや》でも、戦争の話の出ぬところはなかった。憎いロシアだ、こらしてやれという爺《じじい》もあれば、そうした大国を敵としてはたして勝利を得らるるかどうかと心配する老人もあった。子供らは旗をこしらえて戦争の真似《まね》をした。けれどがいして田舎は平和で、夜はいつものごとく竹藪《たけやぶ》の外に藁屋《わらや》の灯《あかり》の光がもれた。ちょうど旧暦の正月なので、街道の家々からは、酒に酔《え》って笑う声や歌う声もした。
このごろかれは朝は六時半に起床し、夜は九時に寝た。正月の餅と饂飩《うどん》とに胃腸をこわすのを恐れたが、しかしたいしたこともなくてすぎた。節約に節約を加えた経済法はだんだん成功して負債《ふさい》もすくなくなり、校長の斡旋《あっせん》で始めた頼母子講《たのもしこう》にも毎月五十銭をかけることもできるようになった。午後の二時ごろにはいつも新聞が来た。戦争の始まってから、互いにかわった新聞を一つずつ取って交換して見ようという約束ができた。国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗《とこや》から報知を持って来た。
この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節倹をすること
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