けむり》を立てて通って行くのが見えた。
土手を下りて旗井《はたい》という村落にはいったころには、もうとっぷりと日が暮れて、灯《あかり》がついていた。ある百姓家では、垣のところに行水盥《ぎょうずいだらい》を持ち出して、「今日は久しぶりでまた夏になったような気がした」などと言いながら若いかみさんが肥《こ》えた白い乳を夕闇の中に見せてボチャボチャやっていた。鉄道の踏切《ふみきり》を通る時、番人が白い旗を出していたが、それを通ってしまうと、上り汽車がゴーと音を立てて過ぎて行った。かれは二三度路で中田への渡《わた》し場《ば》のありかをたずねた[#「たずねた」は底本では「はずねた」]。夜が来てからかれは大胆になった。もう後悔の念などはなくなってしまった。ふと路傍に汚ない飲食店があるのを発見して、ビールを一本傾けて、饂飩《うどん》の盛りを三杯食った。ここではかみさんがわざわざ通りに出て渡船場《わたしば》に行く路を教えてくれた。
十日ばかりの月が向こう岸の森の上に出て、渡船場《わたしば》の船縁《ふなべり》にキラキラと美しく砕《くだ》けていた。肌《はだ》に冷やかな風がおりおり吹いて通って、やわらかな櫓《ろ》の音がギーギー聞こえる。岸に並べた二階家の屋根がくっきりと黒く月の光の中に出ている。
水を越して響いて来る絃歌《げんか》の音が清三の胸をそぞろに波だたせた。
乗り合いの人の顔はみな月に白く見えた。船頭はくわえ煙管《きせる》の火をぽっつり紅《あか》く見せながら、小腰《こごし》に櫓を押した。
十分のちには、清三の姿は張《は》り見世《みせ》にごてごてと白粉《おしろい》をつけて、赤いものずくめの衣服で飾りたてた女の格子の前に立っていた。こちらの軒からあちらの軒に歩いて行った。細い格子の中にはいって、あやうく羽織の袖を破られようとした。こうして夜ごとに客を迎うる不幸福《ふしあわせ》な女に引きくらべて、こうして心の餓《う》え、肉の渇《かわ》きをいやしに来た自分のあさましさを思って肩をそびやかした。廓《くるわ》の通りをぞろぞろとひやかしの人々が通る。なじみ客を見かけて、「ちょいと貴郎《あなた》!」なぞという声がする。格子に寄り合うて何かなんなんと話しているものもある。威勢よくはいってトントン階段を上がって行くものもある。二階からは三絃《しゃみせん》や鼓《つづみ》の音がにぎやかに聞こえた
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