ヶ谷村役場と黒々と大きく書きつけてあった。
小川屋のかたわらの川縁《かわべり》の繁みからは、雨滴《あまだ》れがはらはらと傘の上に乱れ落ちた。錆《さ》びた黒い水には蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》が赤い腹を見せている。ふと街道の取つきの家から、小川屋のお種という色白娘が、白い手拭いで髪をおおったまま、傘もささずに、大きな雨滴《あまだ》れの落ちる木陰《こかげ》を急いで此方《こなた》にやって来たが、二三歩前で、清三と顔見合わせて、ちょっと会釈《えしゃく》して笑顔を見せて通り過ぎた。
学校はまだ授業が始まらぬので、門から下駄箱の見えるほとりには、生徒の傘がぞろぞろと続いた。男生徒も女生徒も多くは包みを腰のところにしょって尻をからげて歩いて来る。雨の降る中をぬれそぼちながら、傘を車の輪のように地上に回して来る頑童《わっぱ》もあれば、傘の柄を頸《くび》のところで押さえて、編棒《あみぼう》と毛糸とを動かして歩いて来る十二三の娘もあった。この生徒らを来週からは自分が教えるのだと思って、清三はその前を通った。
明方《あけがた》から降り出した雨なので、路《みち》はまだそうたいして悪くなかった。車や馬の通ったところはグシャグシャしているが、拾えば泥濘《どろ》にならぬところがいくらもある。路の縁《ふち》の乾いた土には雨がまだわずかにしみ込んだばかりであった。
井泉村の役場に助役を訪ねてみたが、まだ出勤していなかった。路に沿った長い汚ない溝《どぶ》には、藻《も》や藺《い》や葦《あし》の新芽や沢瀉《おもだか》がごたごたと生《は》えて、淡竹《またけ》の雨をおびた藪《やぶ》がその上におおいかぶさった。雨滴《あまだ》れがばらばら落ちた。
路のほとりに軒の傾《かた》むいた小さな百姓家があって、壁には鋤《すき》や犁《くわ》や古い蓑《みの》などがかけてある。髪の乱れた肥った嚊《かかあ》が柱によりかかって、今年生まれた赤児《あかご》に乳を飲ませていると、亭主らしい鬚面《ひげづら》の四十男は、雨に仕事のできぬのを退屈そうに、手を伸ばして大きなあくびをしていた。
鎮守《ちんじゅ》の八幡宮の茅葺《かやぶき》の古い社殿は街道から見えるところにあった。華表《とりい》のかたわらには社殿修繕の寄付金の姓名と額《たか》とが古く新しく並べて書いてある。周囲《しゅうい》の欅《けやき》の大木には
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