だ、ばか!」
 と言ったがだめだった。
 月は互いに争うこの一群をあきらかに照らした。女のキャッキャッと騒ぐ声があたりにひびいて聞こえた。
「ヤア、学校の先生があまっちょにいじめられている!」と言って笑って通って行くものもあった。樽拍子《たるびょうし》の音が唄につれて、ますます景気づいて来た。

       三十一

 秋季皇霊祭の翌日は日曜で、休暇が二日続いた。大祭の日は朝から天気がよかった。清三はその日大越の老訓導の家に遊びに行って、ビールのご馳走になった。帰途についたのはもう四時を過ぎておった。
 古い汚ない廂《ひさし》の低い弥勒《みろく》ともいくらも違わぬような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を帯びて今着いたばかりの客をおろしていた。ラムネを並べた汚ない休み茶屋の隣には馬具や鋤《すき》などを売る古い大きな家があった。野に出ると赤蜻蛉《あかとんぼ》が群れをなして飛んでいた。
 利根川の土手はここからもうすぐである。二三町ぐらいしか離れていない。清三はふとあることを思いついて、細い道を右に折れて、土手のほうに向かった。明日は日曜である。行田に行く用事がないでもないが、行かなくってはならないというほどのこともない。老訓導にも校長にも今日と明日は留守《るす》になるということを言っておいた。懐《ふところ》には昨日おりたばかりの半月の月給がはいっている。いい機会だ! と思った心は、ある新しい希望に向かってそぞろにふるえた。
 土手にのぼると、利根川は美しく夕日にはえていた。その心がある希望のために動いているためであろう。なんだかその波の閃《きら》めきも色の調子も空気のこい影もすべて自分のおどりがちな心としっくり相合っているように感じられた。なかばはらんだ帆が夕日を受けてゆるやかにゆるやかに下《くだ》って行くと、ようようとした大河《たいか》の趣《おもむき》をなした川の上には初秋《はつあき》でなければ見られぬような白い大きな雲が浮かんで、川向こうの人家や白壁の土蔵や森や土手がこい空気の中に浮くように見える。土手の草むらの中にはキリギリスが鳴いていた。
 土手にはところどころ松原があったり渡船小屋《わたしごや》があったり楢林《ならばやし》があったり藁葺《わらぶき》の百姓家が見えたりした。渡し船にはここらによく見る機回《はたまわ》りの車が二台、自転車が一個《ひとつ》、
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