》が咲くころになると、清三は散歩を始めた。古ぼけた茶色の帽子をかぶった背のすらりとしたやせぎすな姿はそこにもここにも見えた。百姓は学校の若い先生が野川の橋の上に立って、ぼんやりと夕焼けの雲を見ているのを見たこともあるし、朝早く役場の向こうの道を歩いているのに出会うこともあった。役場の小使と立ち話をしていることもあれば、畠にいる人々と挨拶《あいさつ》していることもある。時には、学校の女生徒を、二三人つれて、林の中で花を摘《つ》ませて花束を作らせたりなんかしていることなどもある。
 弥勒野《みろくの》の林の角《かど》で、夕暮れの空を写生していると、
「やア、先生だ、先生だ!」
「先生が何か書いてらア」
「やア画を描《か》いてるんだ!」
「あの雲を描いてるんだぜ」
 などと近所の生徒がぞろぞろとそのまわりに集まって来る。
「うまいなア、先生は」
「それは当たり前よ、先生じゃねえか」
「あああれがあの雲だ」
「その下のがあの家《うち》だ」
 黙って筆を運ばせていると、勝手なことを言ってしゃべっている。どうしてあんなうまく書けるのかと疑うかのように、じっと先生の顔をのぞきこむ子などもあった。翌日学校に行くと、その生徒たちはめずらしいことを見て知っているというふうにそれを他の生徒に吹聴《ふいちょう》した。「先生、昨日書いてた絵を見せてください!」などと言った。
 清三はだんだん近所のことにくわしくなった。林の奥に思いもかけぬ一軒家があることも知った。豪農の家の樫《かし》の垣の向こうに楊《やなぎ》の生えた小川があって、そこに高等二年生で一番できる女生徒の家があることをも知った。その家には草の茂った井戸があって桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、168−11]《はねつるべ》がかかっていた。ちょうどその時その娘はそこに出ていた。「お前の家はここだね」と言って通り抜けようとすると、「おっかさん、先生が通るよ!」と言った。母親は小川で後ろ向きになってせっせと何か物を洗っていた。加須《かぞ》に通う街道には畠があったり森があったり榛《はん》の並木があったりした。ある時|楢《なら》の林の中に色のこい菫《すみれ》が咲いていたのを発見して、それを根ごしにして取って来て鉢《はち》に植えて机の上に置いた。村をはずれると、街道は平坦《へいたん》な田圃《たんぼ》の中に通じて、白い塵埃《ちりほこり》がかす
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