たままになっている。和尚《おしょう》さんは、「林君、どうしたんですか、あまり久しく帰って来ませんが……学校に何か忙しいことでもあるんですかねえ」と言った。荻生さんが心配して忙しい郵便事務の閑《すき》をみて、わざわざ弥勒《みろく》まで出かけて行くと、清三はべつに変わったようなところもなく、いつも無性《ぶしょう》にしている髪もきれいに刈り込んで、にこにこして出て来た。「どうもこの寒いのに、朝早く起きて通うのが辛いものだからねえ、君、ここで小使といっしょに寝ていれば、小供がぞろぞろやってくる時分までゆっくりと寝ていられるものだから」などと言った。八畳の一間で、長押《なげし》の釘には古袴《ふるばかま》だの三尺帯だのがかけてある。机には生徒の作文の朱で直しかけたのと、かれがこのごろ始めた水彩画の写生しかけたのとが置いてあった。教授が終わって校長や同僚が帰ってから、清三は自分で出かけて菓子を買って来て二人で食った。かれは茶を飲みながら二三枚写生したまずい水彩画を出して友に示した。学校の門と、垣で夕日のさし残ったところと、暮靄《ぼあい》の中に富士の薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。荻生さんは手に取って、ジッと見入って、「君もなかなか器用ですねえ」と感心した。清三はこのごろ集めた譜のついた新しい歌曲をオルガンに合わせてひいてみせた。
冬はいよいよ寒くなった。昼の雨は夜の霙《みぞれ》となって、あくれば校庭は一面の雪、早く来た生徒は雪達磨《ゆきだるま》をこしらえたり雪合戦《ゆきがっせん》をしたりしてさわいでいる。美しく晴れた軒には雀がやかましく百囀《ももさえずり》をしている。雪の来たあとの道路は泥濘《でいねい》が連日|乾《かわ》かず、高い足駄《あしだ》もどうかすると埋まって取られてしまうことなどもある。乗合馬車は屋根の被《おお》いまではねを上げて通った。
机の前の障子《しょうじ》にさし残る冬の日影は少なくとも清三の心を沈静させた。なるようにしかならんという状態から、やがて「自己のつくすだけをつくしていさぎよく運命に従おう」という心の状態になった。嘆息《ためいき》と涙とのあとに、静かなさびしいしかし甘い安静が来た。霙《みぞれ》の降る夜半《よわ》に、「夜は寒みあられたばしる音しきりさゆる寝覚《ねざ》めを(母いかならん)」と歌って家の母の情《なさけ》を思ったり、「さ
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