も、表から来る人の眼にみなうつった。校長の室《へや》には学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。
「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手筈《てはず》だけで、表向《おもてむ》きにしなかったものだからねえ……」
 と言って、細君の運《はこ》んで来た茶を一杯ついで出して、「君もご存じかもしれないが、平田というあの年の老《よ》った教員、あれがもう老朽でしかたがないから、転校か免職かさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があるッて岸野君が言うもんだから、それでお頼《たの》みしようッていうことにしたのでした。ところが少し貴君《あなた》のおいでが早かったものだから……」
 言いかけて笑った。
「そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……」
「それはそうですとも、貴君《あなた》は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着《むとんじゃく》ですからな」
「それじゃその教員がいたんですね?」
「ええ」
「それじゃまだ知らずにおりましたのですか」
「内々は知ってるでしょうけれど……表向きはまだ発表してないんです。二三日のうちにはすっかり村会で決《き》めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」こう言って、少しとぎれて、
「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、万事《ばんじ》すべて円《まる》くいっていますから、始めて来た方にも勤めいいです。貴下《あなた》も一つ大いに奮発していただきたい。俸給もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」
 煙草《たばこ》を一服吸ってトンとたたいて、
「貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?」
「ええ」
「じゃ一つ、取っておくほうが、万事|都合《つごう》がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか」
「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです」
「どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな」
 学校教授法の実験に興味《きょうみ》を持つ人間と、詩や歌にあくがれている青年とがこうして長く相対《あいたい》してすわった。点心《ちゃうけ》には大きい塩煎餅《しおせんべい》が五六枚盆
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