くもあり腹立しくもあり気の毒にもなった。清三はただフンフンと言って聞いた。
「その代わり僕は僕のできる限りにおいて、君のために尽力《じんりょく》するさ!」
こんなことを[#「 こんなことを」は底本では「こんなことを」]郁治はいく度も言った。
「小畑もそんなことを言っていたよ。僕だッて、君の心地《こころもち》ぐらいは知っているさ」
こんなことをも言った。
郁治はまた石川のこのごろ溺《おぼ》れている加須《かぞ》の芸者の話をした。
「先生、このごろは非常に熱心だよ。君も知ってるだろうが、自転車を買ってね、遠乗《とおの》りをするんだとかなんとか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た小蝶《こちょう》とかいう女で、写真を大事にして持っていたよ。金持ちの息子なんていうものの心はまるでわれわれとは違うねえ君。勉強なんぞしないでも、りっぱに一人前になっていかれるんだからねえ」
できるだけの力をつくすと言った言葉、その言葉の陰に雪子がいることを清三はあきらかに知っていた。けれどそれが清三にはあまりうれしくは思われなかった。つんとすました雪子の姿が眼の前を通ってそして消えた。かれはいまさらに美穂子の姿のいっそう強い影をその心に印《いん》しているのを予想外に思った。こういう道行《みちゆ》きになるのはかれもかねてよく知っていたことである。ある時はそうなるのを友のために祈ったことすらある。けれど想像していた時と事実となった時との感ははなはだしく違った。
清三の心はさびしかった。自己の境遇が実際生活の上からも、恋愛の上からも、学問修業という上からも、ますます消極的に傾いてきて、たとえば柱と柱との間に小さく押しつけられてしまったような気がした。初めはどうしても酔わなかった酒が、あとになるとその反動で激しく発して来て、帰るころには、歌をうたったり詩を吟じたりして郁治を驚かした。
しかし一段落を告げたというような気がないでもなかった。恋を失ったのはつらいが、恋に自由を奪われなかったのはうれしいような気もする。今までの友だちに対しての心持ちも少しく離れて、かえって自己をあきらかに眼の前に見るように思った。
かれは懐《ふところ》に金を七円持っていた。その中のいく分を父母の補助に出すつもりであったが、旅行をする気がないでもないので、わざとそれをしまっておいた。年の暮れももう近寄って来
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