ったりした。
 それが一日二日で通過してしまうと、町はしんとしてもとの静謐《せいひつ》にかえった。清三は二三日前の土曜日に例のごとく行田に行ったが、帰って来て、日記に、「母はつとめて言はねど、父君のさてはなんとか働きたまはば、わが一家は平和ならましを。この思ひ、いつも帰行《きこう》の時に思ひ浮かばざることなし」と書いた。怠《なま》けがちに日を送って、母親にのみ苦労をかける父親がかれにははがゆくってしかたがなかった。かれは病身でそして思いやりの深い母親に同情した。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に即効紙《そっこうし》をはって、夜更《よふ》けまで賃仕事にいそしむ母親の繰《く》り言《ごと》を聞くと、いかなる犠牲も堪《た》えなければならぬといつも思う。時には、父親に内所《ないしょ》で、財布の底をはたいて小遣いを置いて来ることなどもある。それを父親は母親から引き出してつかった。
 二三日前に帰った時にも、あっちこっちに一円二円と細《こま》かい不義理ができて困っているという話を母親から聞いた。
「行田文学」は四号で廃刊《はいかん》するという話があった、石川はせっかく始めたことゆえ、一二年は続けたいが、どうも費用がかさんで、印刷所に借金ができるようでも困るからという。郁治はどうせそんな片々《へんぺん》たるものを出したって、要するに道楽に過ぎんのだからやめてしまうほうが結局いいしかただと賛成する。清三はせっかく四号までだしたのだから、いま少し熱心に会員を募《つの》ったり寄付をしてもらったりしたならば、続刊の計画がたつだろうと言ってみたがだめだった。日曜日には荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。荻生さんは心配のなさそうな顔をしておもしろい話をしながら歩いた。途中で、テバナをかんで見せた。それがいかにも巧みなので、清三は体《からだ》をくずして笑った。清三は荻生さんの無邪気でのんきなのがうらやましかった。
 朝霧の深い朝もあった。野は秋ようやく逝《ゆ》かんとしてまた暑きこと一二日、柿赤く、蜜柑《みかん》青しと、日記に書いた日もあった。秋雨《あきさめ》はしだいに冷やかに、漆《うるし》のあかく色づいたのが裏の林に見えて、前の銀杏《いちょう》の実は葉とともにしきりに落ちた。掃《は》いても掃いても黄いろい銀杏の葉は散って積もる。清三は幼いころ故郷
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