、足音がばたばたと聞こえる。小川屋に弁当と夜具を取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕闇の中から大きな夜具を被《かず》いた黒い影が浮き出すように動いて来て、そのあとに女らしい影がちょこちょこついて来た。
小使は室のうちにドサリと夜具を置いて、さも重かったというように呼吸《いき》をついたが、昼間掃除しておいた三|分心《ぶじん》の洋燈《らんぷ》に火をとぼした。あたりは急に明るくなった。
「ご苦労でした」
こう言って、清三が戸内《こない》にはいって来た。
このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。娘は携《たずさ》えて来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった一室をまぶしそうに見渡した。
「お種坊《たねぼう》、遊んでいくが好《え》いや」
小使はこんなことを言った。娘はにこにこと笑ってみせた。評判な美しさというほどでもないが、眉《まゆ》のところに人に好かれるように艶《えん》なところがあって、豊かな肉づきが頬《ほお》にも腕にもあらわに見えた。
「お母《っかあ》、加減《あんべい》が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな」
「ああ」
「風邪《かぜ》だんべい」
「寒い思《おも》いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝《うたたね》なぞしているもんだから……風邪《かぜ》を引いちゃったんさ……」
「お母《っかあ》、いい気だからなア」
「ほんとうに困るよ」
「でも、お種坊はかせぎものだから、お母《っかあ》、楽ができらアな」
娘は黙って笑った。
しばらくして、
「お客様の弁当は、明日《あした》も持って来るんだんべいか」
「そうよ」
「それじゃ、お休み」
と娘は帰りかけると、
「まア、いいじゃねえか、遊んでいけやな」
「遊んでなんかいられねえ、これから跡仕舞《あとじま》いしねきゃなんねえ……それだらお休み」と出て行ってしまう。
弁当には玉子焼きと漬《つ》け物《もの》とが入れられてあった。小使は出流《でなが》れの温《ぬる》い茶をついでくれた。やがて爺《じじい》はわきに行って、内職の藁《わら》を打ち始めた。夜はしんとしている。蛙の声に家も身も埋《う》めらるるように感じた。かれは想像にもつかれ、さりとて読むべき雑誌も持って来なかったので、包みの中から洋紙を横綴《よことじ》にした手帳を出して、鉛筆で日記をつけ出した。
四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思
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