た。それに用のないものも、午《ひる》から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇《かっ》した人のように熱心に読んだ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨《しぐれ》、水車《みずぐるま》の月に光る橋のほとりに下宿した若い教員、それらはすべて自分の感じによく似ていた。かれはおりおり本を伏せて、頭脳《あたま》を流れて来る感興にふけらざるを得なかった。
三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓《テーブル》の前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習《さらえ》をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜《すいか》などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹《なか》をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結《ゆ》った女生徒と鼻を垂《た》らした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫《すみれ》色の袴《はかま》をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九|連草《れんそう》の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花《あじさい》の花もあった。
十八
暑中休暇はいたずらに過ぎた。自己の才能に対する新しい試みもみごとに失敗した。思いは燃えても筆はこれに伴《ともな》わなかった。五日ののちにはかれは断念して筆を捨てた。
寺にいてもおもしろくない。行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。それに、美穂子が帰っているだけそれだけ、そこにいるのが苦痛であった。かれは一人で
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