ば、自分もこうなってしまうんだ!」
この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。これを考えると、いつも胸が痛くなる。いてもたってもいられないような気がする。小さい家庭の係累《けいるい》などのためにこの若い燃ゆる心を犠牲にするには忍びないと思う。この間も郁治と論じた。「えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入《はい》れ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……」こう言って清三は友の巧名心を駁《ばく》した。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。
それを今思い出した。「自分も世の中の多くの人のように、暢気《のんき》なことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。
つい麦酒《びいる》を五六杯あおった。
青い田の中を蝙蝠傘《こうもりがさ》をさした人が通る、それは町の裏通りで、そこには路にそって里川が流れ、川楊《かわやなぎ》がこんもり茂っている。森には蝉《せみ》の鳴き声が喧《かまびす》しく聞こえた。
一時間たつと、三人はみんな倒れてしまった。校長は肱枕《ひじまくら》をして足を縮めて鼾《いびき》をかいているし、大島さんは仰向《あおむ》けに胸を露《あら》わに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。独《ひと》り関さんは退屈そうに、次の広間に行ってビラなどを見た。
三時過ぎに、清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通《かぜとお》しのよい本堂の板敷きに心地よさそうに昼寝をしている。
午後の日影に剖葦《よしきり》がしきりに鳴いた。
十六
暑いある日の午後、白絣《しろがすり》に袴《はかま》という清三の学校帰りの姿が羽生の庇《ひさし》の長い町に見えた。今日月給が全部おりて、懐《ふところ》の財布が重かった。いま少し前、郵便局に寄って、荻生君に借りた五十銭を返し、途中で買って来たくず餅を出して、二人で茶を飲み飲み楽しそうに食った。「どうも、これも長々ありがとう」と言って、二月ほど前から借りていた鳥打《とりう》ち帽を取って返した。
「まだいいよ
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