思はれた。
 殿達に取つては、坊の小路は此上もない歡樂の庭であるらしかつた。灯が明るくついて、子の刻を過ぎても、醉ひしれたりざれ戯れたりする男や女の聲があちこちにきこえた。そしてそこで酒を飮んだり女と戯れたりして、明方近く牛車の音ががたがたとあたりにきこえた。
 兼家にしても、坊の小路に出入りするやうになつてから、いつも曉にその車を窕子の家に寄せるのだつた。それでもさうして車を寄せて來るだけがそなたを思うてゐる證據ではないか。かうして來るところを買つて貰はねばならぬ。『女子などはたゞ酒の相手にするだけぢや、何もするのぢやない……』いつもこんなことを言つてその酒臭い顏を窕子に寄せた。
 二三日經つてから、あけ方に戸をコトコトと叩く音がした。たしかに兼家が車をその築土に寄せたのであつた。しかし窕子は腹立たしく思つてゐることがあつたので、じらせてやるつもりで、その戸を明けようともせずにじつとしてゐた。
 頻りにコトコトと音がした。つゞいて何か牛かひと話してゐるやうな氣勢がした。何うするだらう。いつもならばもつと強く誰か起きずにはゐられないくらゐに叩くのに、それもせずに、そのまゝ車をあとへもど
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