そんなことはちつとも存じませぬ。初耳でござります……』
『宮はよくさういふことを申して、憤られて御出でであつた。今の世の中に、さういふことを考へるものはない。快樂を追うものでなければ、名を求めるもの、權力を求めるもの、さういふものばかりぢや。そしてそれは何のためかといへば、皆な自分の我儘を振舞うためにさうしてゐるのぢや。ひとりとして人間のため、彌勒の世に進むために力を盡してゐるものなどはない……。それを思ふと、歎かはしいと常に申して居られた!』その故宮に對する考へが急に胸にあつまつて來たらしく、登子は裳の袖をおもてに當てた。
 二人ともだまつて了つた。まゝにならぬ苦しみが深くかれ等の胸を塞ぐやうにした。
『本當に、さういふ新しい考へをお持ちになつたのでございますか?』
 暫くしてから窕子は訊いた。
『本當もうそもない……。この身が常にきかされたことぢやに……。この身にしても、宮から何のやうにいろいろなことを教へられたことか。佛のことなどでも、深う深う知つて居られた……。今の世の中では、大比叡の坊主どもが快樂のみを説いて、何うせ思ふまゝにならぬ世ぢや。これがさだめぢやと言うて、苦しみをそ
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