だよ』と言つた言葉が染々呉葉にも思ひ出された。
『それでは――』
『健かに』
 かう互に言ふ言葉がやがて藤と呉葉との間に取交された。
 藤は母親に寄添つて、止むを得ずに、窕子にも家の人々にもわかれを告げて出て行つた。
 窕子もそれを廊下のところまで見送つて行つたが、やがてそこからもどつて來た呉葉に向つて、『うらやましいね、田舍の靜かなところに行けるのは?』ふと呉葉の眼に涙が一杯にたまつてゐるのに目をとめて、『お前も、田舍に歸りたくなつたのね?』
『…………』呉葉の眼からは涙がほろほろとこぼれ落ちた。
『お前の心持はよくわかるよ……。でも、私を捨てゝ行つてお呉れでない、ね、ね……』と窕子はその顏を覗くやうにした。野から山へと青嵐をわけて歩いて行く藤母子の姿が今しもはつきりと二人の眼に映つて見えた。
『本當にお前は私を捨てないでお呉れ……』
『…………』
『ね、ね』
 窕子は重ねて言つて、『いつか、その中一緒に觀音さまにお詣りする時が來るだらうから、その時はお前の田舍にも行つて見たいと思つてゐるのだから……』
 呉葉は涙を歛めて、
『勿體ない……』
『お前にゐなくなられたら、それこそこの身は何うしたら好いかわからなくなるのだから。それは母者はよう見舞うて呉れるけれども、本當に私の心を知つてゐて呉れるのはお前ばかりだからね。……田舍も戀ひしいだらうけども……』
『勿體ない……』
 呉葉は別な意味でまた涙組ましい心持になつて行つた。主從と名には呼ばれてゐるけれども、同胞にも劣らないやうな窕子の平生のいつくしみがそこにありありとくり返されて來た。
『その中にはお前にだつて好いこともあるだらうし……、あのやうな殿でも、今に一の人にならぬとも限らぬし……』
 呉葉は言ひかけた窕子を遮つて、
『もう、もう、そのやうなことは仰有らずにゐて下さいまし……。この身は初めからさう思つて此處に參つて居るのでございますから……。この身は一生お傍は離れないつもりで居りますほどに……。ただ藤の母親に逢つて、あちらのことをきいたりしたので、田舍がこひしうなつたのですけれども、それは深く思うてゐるわけでもござりませぬほどに……』
『ほんに、さうしてお呉れ……。お前なしでは、とてもこの世の中の心の荒波はわたつて行けないのだから。……とても……とても……』
 窕子も袖を面にあてた。
『本當に心安うおぼせ――私のやうなものが今になつて田舍にかへつて行つたとて何になりますものか。田舍のものがもはや相手にしては呉れませぬほどに――この身はいつまでもお傍に――』呉葉もいろいろなことを思ひ出したといふやうにして泣いた。

         二二

 長雨が降り續いて、町の通りも深い泥濘になり、網代車や絲毛車の大きな輪が、牛かひや牛やそこらを通る人だちに泥を飛ばせた。通りは跣足でなければ歩けないので、めつきりと人通りが減つた。大比叡の裾が少し明るくなつたと思つたのも、それもほんの纔の間で、また雲が蔽ひかゝつて、しとしとと雨が降り頻つた。
 窕子は物忌を違へるために、里の家の方へと出かけて行つたが、その雨のために容易に戻つて來ることが出來なくなつた。
『もはや雨師の杜に勅使が立つさうだ――』
『ほんに、かう長雨がつゞいては、洪水が出て困る……』
 さうした話がそこでも此處でもくり返された。何でも山崎の向うの方は、水と岸とが同じぐらゐの高さになつて、今にも土手が切れさうなので、舟の往來すらも禁められてあるなどといふ噂が傳へられた。折角植ゑた稻が全く水の中に浸つてしまつたところなども到るところにあるといふことであつた。
 不圖窕子はある事を耳にした。
『それはほんと?』
『ほんたうでございます』
 何處からか聞いて來た呉葉は、かう言つてあとを殘した。
『でも登子の君がそのやうなところにゐるといふのは?』
『ですから、この身も何うかと思つて始めは本當にしなかつたのでございますが……やつぱりまことでございます。何でも、一時、身を忍ばせてゐらるゝのださうでございます……』
『でも、西の邸と言へば、すぐそこぢやないか。それに、あそこは大殿がおかくれになつてから、草が茫々と生えたまゝにしてあるといふぢやないか。それなのに……』
兼家や中宮の妹で、御門にさへ思はれてゐる登子の君が、そのやうな廢屋に來てゐようとは窕子には容易に信じられなかつた。
『でも本當でございます』
『お前、誰に聞いた?』
『さつき、下のものが何かこそこそと話しては、大事でもあるやうに致してをりますから、何うしたのかと思つてきいたのでございます。さうしたら、末の君だつて申すぢやございませんか。それも内所にして置かなければいけないので……それで――』
 呉葉は聲を落した。
 つい今から一月ほど前、式部卿の宮の突然の死は、京の人達
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