の耳を驚かした。窕子は中でもことに驚いたもののひとりであつた。かの女は一番先きに登子のことを考へた。つゞいて兼家がやつて來た時、それとなしに聞いて見た。しかし何うしてか兼家もはつきりしたことを言はなかつた。『さア、それはわからぬが、そのやうなことはあるまいと思ふな? 平生がお弱い方だつたから、急に風邪を引いたのがもとになつたのらしいな。そのやうなことはあるまい。失戀して自づから死んだなどいふことはあるまい……。宮はさういふ風に意志の強い方ではなかつた』などといくらか他にそらすやうにして言つた。登子のことに關しては、『まア、そのやうなことはあまりに深くきかぬ方が好いな……』かう言つただけで兼家はそのまゝ口を噤んで了つた。
 しかし世間ではいろいろなことを噂した。御門の戀の犧牲になつたのだなどと言つた。宮の死はおそれ多いが自ら藥を飮ませられたのだなどと言つた。またその末の君がそれがため絶望のどんぞこに墮ちて氣も狂ひさうになつてゐるのを、無理に内裏に上げるやうにしてゐるので、そこにもまた一悲劇持上るに違ひないなどと評判した。窕子にしても眞相がわからぬので、ひそかに心を痛めてゐるのであつた。それが――その末の君の登子がひそかにその西の邸の廢宅のやうになつてゐるところに來てゐるといふのだから、窕子の容易に本當にしないのも無理はなかつた。
『それで、お前はそこに行つて見たと言ふのかね?』
『さやうでございます』
『何うかなすつていらした? 別におかはりもない御樣子だつたか?』
『ちよつと後姿をお見かけ致しただけですから、それまではつきり致してをりませんけれど、皆人の言ふところでは、別にこれと言つておかはりもないさうでございます……』
『それはうれしい……』かう言つたが、窕子は立つて厨子の上から硯箱を取り出して、それに例の美しい假名で歌を書いて、それをそのまゝ西の邸へと持たせてやつた。
 すぐ折かへして返事が來た。それには登子の上手な手で、
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天の下
さわぐ心も
大水に
誰も戀路に
ぬれさらめやは
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 と見事に認められてあつた。窕子はそのまゝじつとしてはゐられなかつた。廢址のやうな中にその失戀の身を埋めてゐる登子を目のあたりに見ずにはゐられないやうな氣がした。皆なの留めるのもきかずに、呉葉をつれて、そつとその廢宅に行つて見ることにした。
 さみだれが降り頻つた。容易に止みさうにもなかつた。卯の花の白く籬に咲いてゐるのがそれと夕暮近い空氣の中にくつきりと出てゐた。わざと他に知れないやうに、裏道になつてゐる草の露の中をかれ等はそつと拾ふやうにしてたどつた。古い藺笠。小さな裏。ともすれば女沓が泥濘の中に埋れさうになるのを辛うじて縫ふやうにして二つの姿は半ば潰れた門の方へと入つて行つた。
 門に入つてからも、かれ等は足場のわるいのに苦しまずにはゐられなかつた。そこにはつい此間まで庭の一部分であつた池があつて、藻だの萍だの芦だのに雨が頻に降りかゝつてゐるのを見た。あたりはひつそりしてるた。成ほどこゝいらはちよつと他にはわかりさうにも思はれなかつた。茂つたまゝ延びたまゝに樹が一面にあたりを暗くしてゐた。
 池の周圍をぐるりと廻つて、やつとその對屋の階段のところへ行つて、そこにそのかぶつて來たぬれた藺笠を脱いだ。かれ等はあたりを見廻した。
 誰も出て來るものもなかつた。それも理だつた。今時分、降りしきる雨を侵してこんなところにやつて來るものがあるなどとは誰も思ひもかけないことだつた。かれ等は爲方なしに、そつとその階段をのぽつて行つた。夕暮はいつか夜にならうとしてゐた。
『お前、そつと入つて行つて、きいて見て御覽……』
 窕子は小聲で言つた。
 呉葉は入つて行つた。廊下の小さな欄干に添つてその影はすぐ向うに消えた。
 窕子はひとりじつと立盡した。雨がかなり強く音を立てゝ降つてゐる。さつきまで見えてるた卯の花の白さも、もはや夜の空氣の中にぼんやりと微かになつて了つた。窕子は何とも言へないさびしさと悲しさと心細さとに襲はれて、戀といふものの闇が、そこに恐ろしく悲しくひろげられて來たやうな氣がした。
 雨の縱縞がその闇の中に微に線を引いてゐるのが覗かれた。
 靜かな足音がした。呉葉がもどつて來た。
 小聲で言つた。
『びつくりしてゐらつしやいました……』
『さうだらうね?』
『別におかわりにもなつてゐないやうでございます――』
『それで――』
 そこに登子のおつきの常葉といふ中年の侍女が出て來た。
『何うぞ――』
『よろしいのですか?』
 で、三つの影は音も立てずに、周圍を取卷いた小欄干に添つて靜かに動いて行つた。
 そつと妻戸を明けて入つて行くと、そこは周圍の廊下を几帳でしきつたやうなところで、小さな結燈臺が既に明
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