方から窕子のゐる西の對屋の方へと二三歩足をすゝめたばかりであるが、見てはならないものを見たやうな氣がしてかの女はじつとそこに立盡した。
かの女の眼に映つたのは他でもなかつた。その築土の崩れのところを誰が見てもそれと點頭かれる狩衣姿の上品な若い男が童姿の供を一人つれて、そこを乘り越えて此方へと入つて來ようとしてゐる形であつた。その人はその向うの物かげに呉葉が立つてゐて、息を殺してそれを見てゐるなどとは夢にも知らず、薄暮の空氣があたりを名殘なく蔽ひ包んでゐるので、もはや人目にかゝる恐れもないといふやうに、何の躊躇もなしに、その崩れを乘り越して、草原の亂れがましい中をそのまゝ一歩一歩西の對屋の東の口へと近寄つて行つた。童姿の供の太刀の薄暮の中に動くのもそれと微かに透いて見えた。
呉葉はじっとして蹲踞んでゐた。これはかうなるのが當り前だ! といふ風にかの女は思つた。かうなるのを邸の人達も皆な望んでゐる。その身とてさう望んでゐた筈である。これでもし縁が結ばれるならば、むしろそれは目出たいことである。さう思ひながらも、何となく胸がドキドキして、何う女君はするだらう。もしかしたら、それを拒むかも知れない。入って行くのを膠もなく拒むかも知れない………。かう思つて見てゐると、童姿の供はそこにぼんやりとその輪郭を薄暮の空氣の中に色濃く見せてゐるけれども、その男の方の姿は、いつかすひ込まれるやうにその内に消えてなくなつて了つてゐる。否、その少し前にその入口のところに女君が出て來たやうである。此方がさう思つてゐるためにさう見えたのかも知れないけれども、たしかにそこにその輪郭が見えたやうな氣がする。しかも耳を聳てゝきいてゐても、別に今入つて行つた男を拒むやうな氣勢も何もきこえて來ない。もし何か女君が聲を立てるやうなことがあつたら、すぐ入つて行かうと身構えしてゐても、さうした氣勢は少しもきこえて來ない……。爲方なしに、呉葉もじつとしてそこに蹲踞んでゐた。
始めはむしろそれを拒んでゐた歌の贈答がいつの間にかさうでなくなつてゐたのであるのがそれとはつきり呉葉の胸に響いて來た。あたりはしんとしてゐる。竹に當る風すらもない。何處かで下司の醉つて罵つてゐる聲がきこえてゐるが、それが大通であるかそれとも此方の家の内であるかはつきりとわからない。崩れた築土を越して向うに明るく闇に見えてゐる窓がある。次第に夜になれば夜になつたで、星あかりのやうなものが微かにも地上に及んでゐると見えて、さつき見た時よりも、童姿の供のそこに待つてゐる輪郭がそれとはつきりするやうになつた。
突然、呉葉の前に立つた一つの黒い影があつた。
『誰ぢや?』
その聲でそれは窕子の兄の攝津介であることがわかつた。
『…………』
『お、呉葉か……。それにしても、このやうなところに何をしてをる?』
手でその高い聲を押へるやうにして、
『殿が……』
『何と……?』呉葉の指さす方向に眼を移しながら、『殿が……あの堀川の殿が……。それはまことか……いつ? もうさつきにか? 今か?』その聲は壓し潰されたやうに低くなつた。
攝津介も默つてじつと立つてゐたが、
『別に窕子はそなたを呼びはせざつたか?』
『別に……』
『それなら、それで好い……。こんなところに立つて居なくとも好い。こつちに來やれ。目出たいことを母者に知らせて喜ばねばならぬ……』
攝津介はそのまゝかの女を伴うて向こうに行つて了しまつたので、呉葉はその後のことを知らなかつた。それから一時ほどして呉葉が入つていつた時には、窕子はいつものやうに几帳のかげにその身を置いたままで、あたりには誰もゐず、結燈臺の灯が微かに隙間洩る夜風に瞬いてゐるばかりだつた。呉葉は見ぬようにしてじつと窕子を見詰めた。窕子も眼を下に落としたまゝで深い深い物思ひに沈んでゐた。暫くそのまゝで經つた。
最初に窕子は言つた。
『何處に行つていたの? お前……?』
しかもその聲は微かで、眼は同じところを見たまゝであつた。
『向こうに居りました……』
『………』窕子は何か言はうとしたが、何う言つて好いかわからないといふやうに默つて了つた。
『何か御用でしたか?』
『別に……』
かう言つたが、急に、『この身は困つた――』
しかしその表情はそれほど困つたとも見えはしなかつた。
『何うかなさいましたか?』
『…………』
『え?』
『今、思ひもかけぬ客人があって……』
『客人が?』
呉葉はわざとしらばくれるようにして言つた。
『困つた、此身は?』
『客人はどなたで御座いましたか?』
『そなたの好きな堀川どの……』
『え!』
呉葉はわざと驚いたやうに見せかけて聲を立てた。
窕子が物思ひに沈んでゐたのは、悲しい心に屬するものではないといふことが次第に呉葉にも飮み込めて來た。同じ性の
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