地のわるい仲の姉は越の國の司のもとに嫁して、かへる山を經て遠く有磯海の方へとつれられて行つてゐた。
二
窕子は半ば笑を含むやうに言つた。
『呉葉までそんなことを言ふの?』
『でも、さう言はずにはゐられませんもの……。行く末は一の人になるべき人がこの御歌! お父さまだつて、お母さまだつて、お兄さまだつて、お喜びにならないものは一人だつてないのですもの……誰だつて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らないものはないのですもの……』
『…………』
『お返しあそばせ――』
『…………』
窕子は几帳の蔭に身を寄せて、じつとしたまゝ默つてゐた。何とも言へず美しく神々しく見えた。いつもの窕子――その身が長い間一緒に住んで來た窕子とは何うしても思へない姿がそこにあつた。一ところをじつと見詰めたまゝ目じろぎもせずに窕子は深く考へ込んでゐた。
『本當に……』
『もう少し待つて……』
『でも使のものが待つてをりまするほどに――』
『かへしなどはとても――』
『出來ぬとおつしやいますのですか。行末は一の人となるべき人で御座るのに……』
『呉葉――』
『お母さまも喜びの涙にひたされてゐられます……お父さまも……お兄さまも……』
『…………』
窕子はじつとしたまゝ長い間何も言はなかつたことを呉葉は今でもはつきりと覺えてゐる。その時は、窕子のその態度を寧ろ不思議に、何うしてさういふ風に進まないのであらう、これほど目出たい嬉しいことはないのにと思つたが、今ではさう思つたこの身が淺はかで、窕子の容易に心を起さなかつた心がはつきりそれと指さゝれるやうな氣がするのであつた。しかしその時には呉葉にはそれはわからなかつた。
何も返しをやつたからとて、それが何う彼うなるといふのではない。そのためすぐ身を任せなければならなくなるといふのではない。二度三度歌の贈答をして、それでいけなければ、いくらでも斷ることが出來る。兎に角、さう言つて歌まで下すつたものを無下にかへし歌もせずにかへすといふわけにも行くまい。かへし歌だけは何うしてもしなければ無禮にあたる。かう父も母も兄も言ふので、たうとう窕子は筆を執つて次の歌を書いた。
[#ここから3字下げ]
語らはん人なき里に
時鳥
かひなかるべき聲な古しそ
[#ここで字下げ終わり]
全く振向いても見ないやうなつれない歌だ。これでは餘りにひどいではないか。『音にのみきけばかひなし時鳥こと語らはん思ふ心あり』といふ先方の歌に對して餘りに無禮にはあたりはしないか。かう思つて父母は心配し、呉葉は呉葉で、意味もわからすに、共に共に勸めたけれども、窕子はそれ以外には默つて何も言はなかつた。爲方なしに、そのつれない歌でも、かへし歌をしないよりはする方がまだましだといふので、それを文使のものに持たせてやることにした。
その時のことを呉葉は一年後の今になつてありありと思ひ出した。
三
歌の贈答が絶たれようとしてしかも絶たれず、男心の切なる戀に弱い女心が次第にそれとなしに引寄せられて行くさまがそこに細かな美しい巴渦を卷いた。切な男の戀心を女の身として誰が受げ容れずにゐられようか。何んなに石の心でもそこにさゝれ波の微かな濃淡の影を湛へずにはゐられるものではあるまい。靜かに靜かに音を立てるせゝらぎ、そのせせらぎにさし添つて來る日の影、何んなに深い樹のかげでも、それがさゝやかな光を反映させずには置かぬやうなところにその戀のまことの心の影が微妙な美しい綾を織つた。
後には窕子はそのかへし歌をすらすらと美しい假名でみちのく紙の懷紙に書いた。
時雨が降り、鹿の鳴く音が野邊に微かにきこえる頃には、もはや窕子は初めて歌をかへした時のやうな心ではなかつた。否、かへつて男から贈つて來る歌を待つやうな心持になつてゐた。
それの來ない日には、窕子は何となしに佗びしさうに見えた。庭の中なぞをそこともなしに歩いた。いつもならば決して行つて見ることなどのない崩れた築土の方までも裳を※{#「賽」の「貝」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]げて草をわけて行つた。そしてその崩れた築土のかげのところに咲いてゐた名も知れない細かい赤い白い花などを手に採つて持つて來たりなどした。何うかすると、白い韈の上部が朝の草の露に微かに色づけられてゐることなどもあつた。
その頃のことだつた。まだ加茂の冬の祭には間があつたが、鞍馬あたりは紅葉が盛りで、今年もきさいの宮の行啓があるなどと言はれてゐた頃のある日の夕暮――夕暮と言つてもとろ日の光は全く竹むらの梢にも殘つてはゐず、夜の色が薄ぼんやりとあたりに迫つて來てゐた時、呉葉は今まで曾て見たことのない光景のゆくりなくそこに展けられてあるのを目にしてはつとして立留つた。かの女は今しも厨の
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