にひどいではないか。『音にのみきけばかひなし時鳥こと語らはん思ふ心あり』といふ先方の歌に對して餘りに無禮にはあたりはしないか。かう思つて父母は心配し、呉葉は呉葉で、意味もわからすに、共に共に勸めたけれども、窕子はそれ以外には默つて何も言はなかつた。爲方なしに、そのつれない歌でも、かへし歌をしないよりはする方がまだましだといふので、それを文使のものに持たせてやることにした。
 その時のことを呉葉は一年後の今になつてありありと思ひ出した。

         三

 歌の贈答が絶たれようとしてしかも絶たれず、男心の切なる戀に弱い女心が次第にそれとなしに引寄せられて行くさまがそこに細かな美しい巴渦を卷いた。切な男の戀心を女の身として誰が受げ容れずにゐられようか。何んなに石の心でもそこにさゝれ波の微かな濃淡の影を湛へずにはゐられるものではあるまい。靜かに靜かに音を立てるせゝらぎ、そのせせらぎにさし添つて來る日の影、何んなに深い樹のかげでも、それがさゝやかな光を反映させずには置かぬやうなところにその戀のまことの心の影が微妙な美しい綾を織つた。
 後には窕子はそのかへし歌をすらすらと美しい假名でみちのく紙の懷紙に書いた。
 時雨が降り、鹿の鳴く音が野邊に微かにきこえる頃には、もはや窕子は初めて歌をかへした時のやうな心ではなかつた。否、かへつて男から贈つて來る歌を待つやうな心持になつてゐた。
 それの來ない日には、窕子は何となしに佗びしさうに見えた。庭の中なぞをそこともなしに歩いた。いつもならば決して行つて見ることなどのない崩れた築土の方までも裳を※{#「賽」の「貝」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]げて草をわけて行つた。そしてその崩れた築土のかげのところに咲いてゐた名も知れない細かい赤い白い花などを手に採つて持つて來たりなどした。何うかすると、白い韈の上部が朝の草の露に微かに色づけられてゐることなどもあつた。
 その頃のことだつた。まだ加茂の冬の祭には間があつたが、鞍馬あたりは紅葉が盛りで、今年もきさいの宮の行啓があるなどと言はれてゐた頃のある日の夕暮――夕暮と言つてもとろ日の光は全く竹むらの梢にも殘つてはゐず、夜の色が薄ぼんやりとあたりに迫つて來てゐた時、呉葉は今まで曾て見たことのない光景のゆくりなくそこに展けられてあるのを目にしてはつとして立留つた。かの女は今しも厨の
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