あちらにゐらつしやれます』
『苦しみはせざつたか?』
『あまりさう深くはお苦しみにもなりませんでした。巳の刻あたりから、さうした氣ざしはございましたけれど……ほんにさし込んでゐらせられたのは申の刻あたりからでございます』
『好かつた、好かつた――』
 そこに母親がやつて來た。母親の顏にもよろこびが溢れてゐた。
『別に……』
『二人ともすこやかで、今よく眠つてをります……。今、使を出さうと存じましたところでした……』
 眠つてゐても、こつそりでもそれを覗はずにはゐられないといふやうに、母親や呉葉の頻りに氣を揉むにも拘らず、兼家はそつとその産室を覗いて見た。そこには几帳が兩方から重なるやうに置いてあるが、灯の光がさう大して明るくないので、そこらに置いてある夜のものなどははつきりとは見えなかつた。たゞかれは髮のいつもに似ず白い紙で結ばれてあるのと、向うむきになつてぐつすり眠つてゐるのと、その襟から横顏だけがほのかに白く見えてゐるのと、その向うに今生れたばかりの小さな色の白い、それこそ本當に玉のやうな、髮の毛の黒く濃い赤兒が、その方は少しさめて、眼こそまだ明かぬが、口をもがもがさせてゐるのを兼家は眼にした。已にかれには邸の妻にも、女房にも子供がないではなかつたけれども、それでもその愛してゐる窕子であるために一層その生れた兒がもつと詳しく見たいやうな氣がした。
 かれは几帳の中まで入つて、いぎたなく眠つてゐる窕子を覗いた。
『殿! 殿!』
 そこに呉葉が來てとめた。かれは微笑を浮べながら引返した。

         一一

 産室から出てまだ一月とは經たないほどのことであつた。窕子は兼家の何處かに出かけたあとで思ひもかけないものを發見してはつとした。
 それは螺鈿の文箱の中に、ごたごたと懷紙やら短册やら紙やらが一緒に亂雜に入つてゐるのを、別に疑ふといふやうな氣持もなしに、むしろあまり散ばつてゐるからそれを整理しようぐらゐの心持でその中をあれこれとそろへてゐたのであつた。そこにはかの女の書いた反古もある。兼家の達者な字で書いた文もある。ふと、氣が附いた時には、窕子の眼はその文に燒附きでもするやうにぴたりと留つた。
 女は誰だかわからないが、その文言は何う考へ直してもラブ・レターであつた。それもかなり此方から打ち込んでゐるらしく、例の、この身の時にもさうであつたやうなうまい言葉
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