つたところにある邸――兵衞佐ぐらゐの人の住んでゐる家であるから、さう大してひろくも大きくもなかつたけれども、それでも築土が長く取廻してあつて、栗や柿の樹などがその上から見えて、秋は赤い木の實が葉の落ちたあとの枝に鈴生に着いてゐるのを路行く人はよく眺めて通つて行つた。それからちよつと出ると、そこはもう西洞院の大通りで、馬車、さき追ふ人の聲に雜つて下司どもの罵り騷ぐ聲や、行縢を着けた男や、調度掛をつれた騎馬の侍や、つぼ裝束をした女達の通つて行くのがそれと手に取るやうに展けられて見えた。呉葉は幼いころ、ものの使ひに行つた歸りなどに、一の殿のすさまじく仰々しい行列に逢つて、何うすることも出來ずに、片側の塀にぴたりとその小さき身を寄せてある期間じつとしてゐたりしたことを今でもをりをり思ひ起した。そしてそれを眞直に北に行くと、大宮の築土に突當つて、そこには大きな門があつて、直垂姿や騎馬姿の絶えず出入するのを怖いものでも見るやうな心持でじつと眺めたことを思ひ起した。
 兵衞佐の邸はさう綺麗に掃除されてはゐなかつたけれども、それでもかなりに廣く、竹藪があつたり、池があつたり、その池には家鴨が放たれてあつたり、厨を出たところには、溝の中に夏は杜若が色濃く鮮かに咲いてゐたりなどしたのをはつきりと覺えてゐる。……それにしてもかの女が十三から十五ぐらゐまでの間に、窕子の美しくなつたことは! 指は白魚を竝べたやうに、肌は白く透き徹るばかりに、家の内から滅多にその姿をあらはしたことはなかつたのであるけれども、それでもその美しさはいつか世間に知られて、公達だちの間には喧しく品定めされてゐるといふことが常に呉葉の耳に入つた。
 呉葉は主從ではあつたけれども、しん身の同胞か何かのやうに思つてゐる窕子がさういふ風に日増に美しくなつて行くのを不思議な心持で眺めた。ある時には今までとは全く違つた窕子になつて了つたやうな氣がして、靜かに筆を手に几帳のかげに坐つてゐるのを近寄り難くじつと見守つてゐたことなどもあつた。『お前何してるのさ……そんなところにさつきからぼんやり立つて!』その時だしぬけにかう言はれて、呉葉は何と言つて好いか言葉がなくて困つた。さうかと言つて、『あんまりお美しいから、私、見てゐたのです』とも言へなかつた。もはやその頃には、窕子の二人の姉は皆なそれぞれ然るべきところへと嫁いで行つてゐた。意
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