の耳を驚かした。窕子は中でもことに驚いたもののひとりであつた。かの女は一番先きに登子のことを考へた。つゞいて兼家がやつて來た時、それとなしに聞いて見た。しかし何うしてか兼家もはつきりしたことを言はなかつた。『さア、それはわからぬが、そのやうなことはあるまいと思ふな? 平生がお弱い方だつたから、急に風邪を引いたのがもとになつたのらしいな。そのやうなことはあるまい。失戀して自づから死んだなどいふことはあるまい……。宮はさういふ風に意志の強い方ではなかつた』などといくらか他にそらすやうにして言つた。登子のことに關しては、『まア、そのやうなことはあまりに深くきかぬ方が好いな……』かう言つただけで兼家はそのまゝ口を噤んで了つた。
しかし世間ではいろいろなことを噂した。御門の戀の犧牲になつたのだなどと言つた。宮の死はおそれ多いが自ら藥を飮ませられたのだなどと言つた。またその末の君がそれがため絶望のどんぞこに墮ちて氣も狂ひさうになつてゐるのを、無理に内裏に上げるやうにしてゐるので、そこにもまた一悲劇持上るに違ひないなどと評判した。窕子にしても眞相がわからぬので、ひそかに心を痛めてゐるのであつた。それが――その末の君の登子がひそかにその西の邸の廢宅のやうになつてゐるところに來てゐるといふのだから、窕子の容易に本當にしないのも無理はなかつた。
『それで、お前はそこに行つて見たと言ふのかね?』
『さやうでございます』
『何うかなすつていらした? 別におかはりもない御樣子だつたか?』
『ちよつと後姿をお見かけ致しただけですから、それまではつきり致してをりませんけれど、皆人の言ふところでは、別にこれと言つておかはりもないさうでございます……』
『それはうれしい……』かう言つたが、窕子は立つて厨子の上から硯箱を取り出して、それに例の美しい假名で歌を書いて、それをそのまゝ西の邸へと持たせてやつた。
すぐ折かへして返事が來た。それには登子の上手な手で、
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天の下
さわぐ心も
大水に
誰も戀路に
ぬれさらめやは
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と見事に認められてあつた。窕子はそのまゝじつとしてはゐられなかつた。廢址のやうな中にその失戀の身を埋めてゐる登子を目のあたりに見ずにはゐられないやうな氣がした。皆なの留めるのもきかずに、呉葉をつれて、そつとその廢宅に行つて見ることにした
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