老人は何の準備《したく》もして来なかつた。酒も飯も黙つて御馳走になつて居た。それも困つて居るからだと主婦は思つて居た。
 爺さんもそれを余り虫が好過《よす》ぎると思つて居たらしかつた。
『お爺さん、あんなことを言はなけりや好いのに――折角、心地《ここち》よく連れて来てやつたのに』
 隣の老人が舳先《へさき》の方に行つた跡で、主婦《あるじ》は老爺《らうや》に小声で言つた。
『何アに、少し位言つてやる方が好い。余り虫が好過《よす》ぎる』
 かう言つた爺さんは、もうかなり酔つて居た。
『だツて困つて居るんだから』
『困つて居たツて、余りだ、瓢箪《へうたん》の一つ位持つて来たツて誰も悪いツて言はない……何もおれだツて、そんなことを喧《やかま》しく言ふぢやないけれどな……義理と言ふものがあらア』
 其処《そこ》に下《お》りて来た兄の少年は、またお爺さんの癖が始まつたなと思つた。
 螢が一つ闇の中に流れる頃には、船はもう広い広い利根川に出て居た。星の光に水の流るゝのが暗く綾《あや》をなして見えた。艫《ろ》の音が水を渡つて聞えた。
 遠い河岸《かし》には、灯が処々《ところどころ》に点《つ》いて居るのが見えた。
 其頃、栗橋の鉄橋が出来たばかりであつた。町からわざわざ其橋を見に行つたものも少《すくな》くなかつた。其噂は一家族の人々の耳にも聞えた。
『それ見ろよ、あれが栗橋の鉄橋だと』
 かう主婦が二人の少年に指《ゆびさ》して見せた。川を跨《また》いだ大きな鉄橋は暗い夜《よ》の闇の中に其|輪廓《りんくわく》をはつきりと描いて居た。珍らしいものにあくがれて居る兄弟の心は躍らざるを得なかつた。
 やがて船は近づいて行つた。橋杭《はしぐひ》に当る水音は高く聞えた。少年も老爺《ろうや》も主婦も其下を通る時、皆仰向いて、その大きな鉄橋を闇に透《すか》して見た。兄弟は手を延してその橋杭《はしぐひ》を叩いて通つた。

     六

 兄弟の心は東京に憧れ切つて居た。
 中でも兄は、これで多年《たねん》の志が遂げられたやうな気がした。東京に行きさへすれば、どんな目的でも達せられる。何《ど》んな豪《えら》い人にでもなれる。馬車に乗るやうな立派な人にもなれる。其処《そこ》には、かれの為めに、あらゆる好運と幸福とが門を開いて待つて居るやうにすら思はれた。
 其処《そこ》には何《ど》んな物がかれ等を待つて
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング