て来て、それを菜《さい》にした。
『江戸では、今は松魚《かつを》の盛《さかり》ですな』
『在番《ざいばん》した時分――、勢《いきほひ》の好《い》いあの売声を聞いて、窓から皿を出して買つて食つた時分のことが思はれますな』
少し酒を呑みながら、老人達はこんなことを言つた。
午後には、主婦は連日の疲労につかれ果てたといふやうに、平生《へいぜい》使ひ馴れた黒柿《くろがき》の煙草の箱を枕にして、手拭を顔にかけて、スヤスヤと昼寝をして居た。苫《とま》の間から河風が涼しく吹いて来た。
老人達も少し酔つてやがて寝て了《しま》つた。兄の少年が船から下《お》りて来た時には、盲目《めくら》の婆さんも、鼻唄をやめて横になつて居た。晴れた日影《ひかげ》はキラキラと水に反射して今が暑い盛《さかり》であつた。襦袢《じゆばん》をも脱棄てた二人の船頭は、毛の深い胸のあたりから、ダクダク汗を出しながら、竿《さを》を弓のやうに張つて、頭より尻を高くして船縁《ふなべり》を伝つて行つた。眼の悪い方の船頭は、眼脂《めやに》を夥《おびただ》しく出して、顔を真赤にして居た。
涼しい蔭をつくつた竹藪などはもうなかつた。
五
夕立が催して来た。
船頭は慌てゝ苫《とま》を葺《ふ》いた。其下に一家族は夕立の凄《すさま》じく降つて通る間を輪を描いて集つて居た。銀線のやうな雨が水の上に白い珠《たま》を躍らしてゐるのを苫《とま》の間から少年達は見て居た。
『これで涼しくなつた』
かう老人達が言つた。
夕立の霽《は》れた時には、もう薄暮の色が広い川の上に蔽ひ懸《かか》つて居た。渡良瀬川《わたらせがは》は思川《おもひがは》を入れて、段々大きな利根川の会湊点《くわいそうてん》へと近づいて行つた。風が稍々《やや》追手《おひて》になつたので、船頭は帆を低く張つて、濡れた船尾《とも》の処で暢気《のんき》さうに煙草を吸つて居る。其傍では船頭の上《かみ》さんが、釜に米を入れたのを出して、川から水を汲んで、せつせとそれを炊《と》いで居たが、やがて其処《そこ》から細い紫の煙《けぶり》が絵のやうに川に靡《なび》いた。夕照《せきせう》が赤く水を染めて居た。
老人達は薄暗い処で酒を飲んでゐた。主婦《あるじ》は酒癖の悪い爺さんが、やがて段々酔つて来て、言はないでも好いことを隣の老人に言ひ懸《か》けてゐるのを聞いた。
隣の
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