刀打《たちうち》に一方《ひとかた》ならず参つて居る自分は、太《いた》くそれを恐れて居るのであつた。友も稍《やゝ》酔つた様子で、漸《やうや》く戸外《おもて》の闇《くら》くなつて行くのを見送つて居たが、不意に、かう訊《たづ》ねられて、われに返つたといふ風で、
「本当に因つて了《しま》ふですア、夜も碌々《ろく/\》寝られないのですから」
「それで、一体、犯罪者が解らんのかね?」
「それア、もう彼奴《きやつ》と極《きま》つて、居るんだが……」
「何故《なぜ》、捕縛しないのだね?」
「それが田舎ですア‥…」と友は言葉を意味あり気に長く曳いて、「駐在所に巡査ア、一人来て居る事は居るんだすが、田舎の巡査なんていふ者は、暢気《のんき》な者だで、嫌疑《けんぎ》が懸つたばかりでは、捕縛する事ア出来ん。現行犯でなければ……とかう言つて済まして居りやすだア。一体、巡査先生の方がびく/\して居るんで御座《ごわ》すア、だもんだで、彼奴《きやつ》ア、好い気に為《な》つて、始めからでは、もう十五六軒もツン燃やしましたぜ」
「十五六軒!」
「この小さい村、皆な合せても百戸位しか無《ね》いこの小さい村に、十五六軒ですだで、村|開闢《かいびやく》以来の珍事として、大騒を遣つて居りますだア」
「それは左様《さう》だらう」
 少時《しばらく》経《た》つてから、
「で、一体、その悪漢《わるもの》は何者だね、村の者かね」
「はア、村の者でさア」
「村の者で、それでそんな大胆な事を為《す》るといふのは、其処に何か理由がある事だらうが……」
「何アに、はア御話にも何にもなりやしやせん。放蕩者《どらもの》で、性質《たち》が悪くつて、五六年も前から、もう村の者ア、相手に仕なかつたんでごすから」
「まだ若いのかね」
「いや、もう四十二三‥…」
「それぢや分別盛《ふんべつざかり》だのに……」
 と自分は深く考へた。
「御口にア、合ひますめいけど、何にもがアせんだに、せめて、蕎麦なと上つてお呉れんし」
 と妻君は盆を出した。
 自分はもう十分であるといふ事を述べて、そして蕎麦の椀を保護すべく後に遺つた。それでは御酒《ごしゆ》でもと妻君は徳利を取上げたので、それをも辞義してはと、前のを飲干して一杯受けた。
「それにしても……」と自分は口を開いて、
「十何回も放火を為《す》るのに、一度位実行して居るところを見付けさうな者ですがナア」
「それが、彼奴《きやつ》が実行するのなら、無論見付けない事は無いだすが、彼奴の手下に娘《あま》つ子《こ》が一人居やして、そいつが馬鹿に敏捷《すばしつこ》くつて、丸で電光《いなづま》か何ぞのやうで、とても村の者の手には乗らねえだ」
「それは奴の本当の娘なんですか」
「否《いや》、今年の春頃から、嚊《かゝあ》代《がは》りに連れて来たんだといふ話で、何でも、はア、芋沢《いもさは》あたりの者だつて言ふ事だす。此奴が仕末におへねえ娘《あま》つ子《こ》で、稚《ちひさ》い頃から、親も兄弟もなく、野原で育つた、丸で獣《けだもの》といくらも変らねえと云ふ話で、何でも重右衛門(嫌疑者の名)が飯綱原《いひつなはら》で始めて春情《いゝこと》を教へたとか言《いふ》んで、それからは、村へ来て、嚊の代りを勤めて居るが、これが実に手におへねえだ。重右衛門が自身手を下すのでなく、この獣のやうな娘《むすめ》つ子《こ》に吩附《いひつ》けて火を放《つ》けさせるのだから、重右衛門と言ふ事が解つて居ても、それを捕縛するといふ事は出来ず、さればと言つて、娘つ子は敏捷《すばしこく》つて、捕へる事は猶々《なほ/\》出来ず、殆ど困つて仕舞つたでがすア」
「年齢《とし》は何歳《いくつ》位?」
「まだ漸《や》つと十七位のもんだせう」
「それが捕へる事が出来ないとは! 高が娘《むすめ》つ子《こ》一人」
「知らない人はさう思ふのは無理は無いだす。高が娘《あま》つ子《こ》一人、それを捕へる事が出来ぬとは、余り馬鹿/\しくつて話にも何にも為《な》らない様だが、それを知つて御覧なされ、それは実に驚いたもので、今其処に居たかと思ふと、もう一里も前に行つて居るといふ有様、若い者などがよく村の中央《まんなか》で邂逅《でつくは》して、石などを投《はふ》りつけて遣《や》る事が幾度《いくたび》もある相だすが、中々一人や二人では敵《かな》はない。反対《あべこべ》に眉間《みけん》に石を叩《たゝ》き付けられて、傷を負つた者は幾人《いくたり》もある。それで此方《こつち》が五人六人、十人と数が多くなると、屋根でも、樹でも、する/\と攀上《よぢのぼ》つて、丸で猫ででもあるかのやうに、森と言はず、田と言はず、川と言はず、直ちに遁《に》げて身を隠して了ふ。それは実に驚くべき者ですア」
 此時、ふと、
「やあ!」
 と言つて庭から入つて来た者があつた。見
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