様を奥に通して、行輔が帰つて来る迄《まで》、緩《ゆつく》り御休ませ申して置け」
 自分に向つては、
「それぢや、先生様失礼しやす!」
 自分の挨拶をも聞かず、
「一所に歩《あゆ》べ……おい、作公、何を愚図/\してやがるんだ?」
 と怒鳴りながら走つて行つた。
 同時に自分は奥の一室へと案内される。奥の一室――成程此処は少しは整頓して居る。床の間には何《ど》んな素人《しろうと》が見ても贋《にせ》と解り切つた文晁《ぶんてう》の山水《さんすゐ》が懸《かゝ》つて居て、長押《なげし》には孰《いづ》れ飯山あたりの零落《おちぶれ》士族から買つたと思はれる槍が二本、さも不遇を嘆じたやうに黒く燻《くすぶ》つて懸つて居る。けれど都とは違つて、造作は確乎《しつかり》として居るし、天井は高く造られてあるから風の流通もおのづから好く、只《たゞ》、馬小屋の蝿さへ此処まで押寄せて来なければ、中々居心の好い静かな室《へや》であるのだが……
 やがて妻君は茶器を運んで来たが、おづ/\と自分の前に坐つて、そして古くなつた九谷焼の急須《きふす》から、三十目くらゐの茶を汲んで出した。
「田舎は静かで好いですナア」
 と自分はそれとなく言ふと、
「いゝえ、静かどころでは、……此頃は、はア、えらく物騒で……」
「何うしてゞす」
 と自分は怪んで尋ねた。
「此頃は、はア、えらく火事があるんで、夜もゆつくり寝ては居られないで、はア」
「何うしてゞす?」
「何うしてといふ訳《わけ》も無《ね》えだすが……」
 と躊躇《ためら》ふのを、
「放火《つけび》なのですか」
「はア」
「誰か悪い者でもあるんですか」
「はア、悪い者があつて、どうも困り切りますだア」
 暫時《しばらく》沈黙《だんまり》。
「はア」と自分は緩《ぬる》い茶を一杯|啜《すゝ》つてから、「それでですナア、今|喞筒《ポンプ》を稽古して居るのは?」
「貴郎《あんた》さアも見て御座らしやつたゞか、火事が、はア、毎晩のやうにあつて、物騒で、仕方が無《ね》えものだで、村で、割前で金のう集めて、漸《やうや》く東京から昨日喞筒が出来て来ただア」
「東京から喞筒?」
「はア、昨日出来て来たばかしで……村にやもう何十年と火事なんぞは無いだで、喞筒なんぞは有りませんだつたが、今度は、はア仕方が無《ね》えのでごわす。そして、今夜にも火事が打始《ぶつぱじま》らねえ者でも無《ね》えといふので、若い者が午《ひる》から学校へ寄り集《あ》つて、喞筒の稽古を為《し》て居るんでごわす。……」と少時《しばし》途絶えて、「でも、……大方水は撒《ま》いたやうだで、もう直《ぢ》き帰つて来るでごわしやう」
 と言つたが、更に気を更《か》へて、
「まア、御疲れだせうに、緩《ゆつ》くり横にでも成つて休まつしやれ。牟礼《むれ》には三里には遠いだすから」
 と古い黒塗の枕を出して、そして挨拶して次の室《ま》へ下つた。
 見ると、中々好い眺望《てうばう》である。地位が高いので、村の全景がすつかり手に取るやうに見えて、尾谷川の閃々《きら/\》と夕日にかゞやく激湍《げきたん》や、三ツ峯の牛の臥《ね》たやうに低く長く連《つらな》つて居る翠微《すゐび》や、猶《なほ》少し遠く上州境の山が深紫の色になつて連《つらな》り亘《わた》つて居る有様や、ことに、高社山《かうしやざん》の卓《すぐ》れた姿が、此処から見ると、一層|魁偉《くわいゐ》の趣《おもむき》を呈して居るので、その雲煙の変化が少なからず、自分の心を動かしたのであつた。あゝこの平和な村! あゝこの美しい自然! と思ふとすると、今言つた妻君の言葉がゆくりなく簇々《むら/\》と自分の胸に思ひ出された。この平和な村に喞筒《ポンプ》! この美しい村に放火! 殊に何十年とそんな例《ためし》が無かつたといふこの村に! これは何か意味が無くてはならぬ。これは必ず不自然な事があつたに相違ないと自分は思つた。空想勝なる自分の胸は今しもこの山中にも猶絶えない人生の巴渦《うづまき》の烈しきを想像して転《うた》た一種の感に撲《うた》れたのであつた。

     六

「放火《つけび》が流行《はや》るツて言ふが、一体|何《ど》うしたんです?」
 かう言つて自分は友に訊《たづ》ねた。これは一時間程前、友はその喞筒《ポンプ》の稽古から帰つて来て、いろ/\昔の事や、よくこんな山中《やまんなか》に来て呉れたといふ事や、余り突然なので吃驚《びつくり》したといふ事や、六年ぶりの何や彼《か》やを殆《ほとん》ど語り尽した後で、自分の前には地酒の不味《まづい》のながら、二三本の徳利が既に全く倒されてあつて、名物の蕎麦《そば》が、椀に山盛に盛られてある。妻君は、田舎《ゐなか》流儀の馳走振に、日光塗の盆を控へて、隙《すき》が有つたなら、切込まうと立構へて居るので、既に数回の太
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