へ、自然の心を完全に有せる者は禍《わざはひ》なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業《わざ》もなく、徒《いたづ》らに敗績《はいせき》して死んで了ふであらうか」
「否、否、否、――」
「敗績して死ぬ! これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績は恰《あたか》も武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有しては居るまいか、無限の悲壮を顕《あら》はしては居るまいか、この人生に無限の反省を請求しては居るまいか」
 自分は深く思ひ入つた。
 少時《しばらく》してから、
「けれど、この自然児! このあはれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽して居るのだ! 葬る人も無く、獣のやうに死んで了つても、それでも重右衛門の一生は徒爾《いたづら》ではない!」
 と心に叫んだ。
 何時《いつ》去つたか、傍には既に友は居らぬ。
 戸外の雨はいよ/\侘《わび》しく、雲霧は愁《うれひ》の影の如くさびしくこの天地に充《み》ち渡つた。丘の上の悲しい煙は、殆ど消ゆるかと思はるゝばかりに微かに、微かに靡《なび》いて居るが、村ではこれに対して一人も同情する者が無いと思ふと、自分は又|簇々《むら/\》と涙を催した。
 あゝその雨中の煙! 自分は何うしてこの光景を忘るゝ事が出来よう。

     十二

 否――
 諸君、自分は其夜更に驚くべく忘るべからざる光景に接したのである。自分は自然の力、自然の意のかほどまで強く凄《すさま》じいものであらうとは夢にも思ひ懸けなかつた。其夜自分は早くから臥床《ふしど》に入つたが、放火の主犯者が死んで了つたといふ考へと、連夜眠らなかつた疲労《つかれ》とは苦もなく自分を華胥《くわしよ》に誘つて、自分は殆ど魂魄《たましひ》を失ふばかりに熟睡して了つた。熟睡、熟睡、今少し自分が眼覚めずに居つたなら自分は恐らく全く黒焼に成つたであらう。自分の眼覚めた時には、既に炎々たる火が全室に満ち渡つて、黒煙が一寸先も見えぬ程に這《は》つて居た。自分は驚いて、慌《あわ》てて、寝衣《ねまき》の儘、前の雨戸を烈しく蹴つたが、幸《さいはひ》にも閾《しきゐ》の溝《みぞ》が浅い田舎家《ゐなかや》の戸は忽地《たちまち》外《はづ》れて、自分は一簇《いちぞく》の黒煙と共に戸外《お
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