その新調の喞筒《ポンプ》も、まだ其現場に駆け付けては居らなかつた。暫時《しばらく》すると、燻《くすぶ》つて居た火は恐ろしく凄じい勢でぱつと屋根の上に燃え上る……と……四辺《あたり》が急に真昼のやうに明くなつて、其処等に立つて居る人の影、辛《から》うじて運び出した二三の家具、其他いろ/\の悲惨な光景が、極めて明かに顕《あら》はれて見える。火は既に全屋に及んで、その火の子の高く騰《あが》るさまの凄じさと言つたら、無い。幸ひに風が無いので、火勢は左程《さほど》四方には蔓延《まんえん》せぬけれど、下の家の危さは、見て居ても、殆ど冷汗が出るばかりである。
「喞筒《ポンプ》!」
と叫ぶ声。
「おい、喞筒は何を為《し》て居るだアーい」
と長く曳いて叫ぶ声。
けれど、本当に何うしたのか、喞筒はまだ遣つて来るやうな様子も見えぬ。屋根の焼落つる度《たび》に、美しく火花を散した火の子が高く上つて、やゝ風を得た火勢は、今度は今迄と違つて士蔵の方へと片靡《かたなび》きがして来た。土蔵の上には五六人ばかり人が上つて頻《しき》りに拒《ふせ》いで居た様子だつたが、これに面喰《めんくら》つてか、一人/\下りて、今は一つの黒い影を止めなくなつて了つた。
「熱つくて堪らねえ」
「まご/\して居ると、焼死んで了ふア」
「何うしやがつたんだ。一体、喞筒《ポンプ》は? 気が利《き》かねえ奴等でねえか」
と土蔵から下りて来た人の会話らしい声がすぐ自分の脚下《あしもと》に聞える。
と、思ふと、向ふの低い窪地《くぼち》に簇々《むら/\》と十五六人|許《ばかり》の人数が顕《あら》はれて、其処に辛うじて運んで来たらしいのは昼間見たその新調の喞筒である。
やがて火光に向つて一道の水が烈しく迸出《へいしゆつ》したのを自分は認めた。
「喞筒《ポンプ》確《しつ》かり頼むぞい!」
「確かり遣れ」
「喞筒!」
と彼方《あつち》此方《こつち》から声が懸る。
で、その喞筒《ポンプ》の水の方向は或は右に、或は左に、多くは正鵠《せいこく》を得なかつたにも拘《かゝは》らず、兎《と》に角《かく》、多量の水がその方面に向つて灑《そゝ》がれたのと、幸ひ風があまり無かつたのとで、下なる低い家屋にも、前なる高い土蔵にもその火を移す事なしに、首尾よく鎮火したのである。
それが丁度十時二十分。
疲れたから、帰つて、寝ようかとも思つたが
前へ
次へ
全52ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング