…富山君が来たと謂《い》ふから、松本君に頼んで、代つて貰つたんです。その代り今夜十時から二時間ばかり忍びの方を勤めさせられるのだ」
「僕も二時から起される訳になつて居るんだが」と言つて、急に言葉を変へて、「それから、先程《さつき》聞くと、昼間あの娘つ子が喞筒《ポンプ》の稽古を見て居たと言ふが、それア、本当かね」
「本当とも……総左衛門どんの家の角の処で、莞爾《にこ/\》笑ひながら見てけつかるだ。余り小癪《こしやく》に触るつて言ふんで、何でも五六人|許《ばかり》で、撲《なぐ》りに懸つた風なもんだが、巧にその下を潜《くゞ》つて狐のやうに、ひよん/\遁《に》げて行つて了つたさうだ。……それから重右衛門も来て見物して居たぢやないか」
「重右衛門も?」
「あの野郎、何処まで太いんだか、見物しながら、駐在所の山田に喧嘩見たやうな事を吹懸《ふつか》けて居たつけ。何んだ、この藤田重右衛門が駐在所の巡査なんか恐れやしねえ、何んだ村の奴等ア、喞筒《ポンプ》なんて、騒ぎやがつて、それよりア、この重右衛門に、お酒《みき》でも上げた方が余程|効能《きゝめ》があるんだ。ツて、大きな声で呶《ぬか》して居やがつたつけ。何でも酒を余程飲んで居た風だつた」
「誰が酒を飲ましたのか知らん」
「誰がツて……野郎、又|威嚇《おどし》文句で、又兵衛(酒屋の主人)の許《とこ》へ行つて、酒の五合も喰《くら》つて来たんだ」
「困り者だナア」
と根本は心《しん》から独語《つぶや》いた。
「それから、言ふのを忘れたが、……先程《さつき》此処に来る時、あの森の傍で、がさ/\音が為《す》るから、何かと思つて、よく見ると、あの娘つ子め、何かまご/\捜して居る。此奴《こいつ》怪しいと思つたから、何を為《し》てるんだ! と態《わざ》と大《でか》い声を懸《か》けて遣つた。すると、猫のやうな眼で、ぎよろツと僕を見て、そしてがさ/\と奥の方に身を隠して了つた。丸で獣に些《ちつ》とも違はない……それから、私は、会議所に行つて、これ/\だから注意して呉れと言つて来た」
自分は二人の会話を聞きながら、山中の平和といふ事と、人生の巴渦《うづまき》といふ事を取留《とりとめ》もなく考へて居た。月は段々高くなつて、水の如き光は既に夜の空に名残《なごり》なく充ち渡つて、地上に置き余つた露は煌々《きら/\》とさも美しく閃《きら》めいて居る。さらぬだ
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