えといふので、若い者が午《ひる》から学校へ寄り集《あ》つて、喞筒の稽古を為《し》て居るんでごわす。……」と少時《しばし》途絶えて、「でも、……大方水は撒《ま》いたやうだで、もう直《ぢ》き帰つて来るでごわしやう」
と言つたが、更に気を更《か》へて、
「まア、御疲れだせうに、緩《ゆつ》くり横にでも成つて休まつしやれ。牟礼《むれ》には三里には遠いだすから」
と古い黒塗の枕を出して、そして挨拶して次の室《ま》へ下つた。
見ると、中々好い眺望《てうばう》である。地位が高いので、村の全景がすつかり手に取るやうに見えて、尾谷川の閃々《きら/\》と夕日にかゞやく激湍《げきたん》や、三ツ峯の牛の臥《ね》たやうに低く長く連《つらな》つて居る翠微《すゐび》や、猶《なほ》少し遠く上州境の山が深紫の色になつて連《つらな》り亘《わた》つて居る有様や、ことに、高社山《かうしやざん》の卓《すぐ》れた姿が、此処から見ると、一層|魁偉《くわいゐ》の趣《おもむき》を呈して居るので、その雲煙の変化が少なからず、自分の心を動かしたのであつた。あゝこの平和な村! あゝこの美しい自然! と思ふとすると、今言つた妻君の言葉がゆくりなく簇々《むら/\》と自分の胸に思ひ出された。この平和な村に喞筒《ポンプ》! この美しい村に放火! 殊に何十年とそんな例《ためし》が無かつたといふこの村に! これは何か意味が無くてはならぬ。これは必ず不自然な事があつたに相違ないと自分は思つた。空想勝なる自分の胸は今しもこの山中にも猶絶えない人生の巴渦《うづまき》の烈しきを想像して転《うた》た一種の感に撲《うた》れたのであつた。
六
「放火《つけび》が流行《はや》るツて言ふが、一体|何《ど》うしたんです?」
かう言つて自分は友に訊《たづ》ねた。これは一時間程前、友はその喞筒《ポンプ》の稽古から帰つて来て、いろ/\昔の事や、よくこんな山中《やまんなか》に来て呉れたといふ事や、余り突然なので吃驚《びつくり》したといふ事や、六年ぶりの何や彼《か》やを殆《ほとん》ど語り尽した後で、自分の前には地酒の不味《まづい》のながら、二三本の徳利が既に全く倒されてあつて、名物の蕎麦《そば》が、椀に山盛に盛られてある。妻君は、田舎《ゐなか》流儀の馳走振に、日光塗の盆を控へて、隙《すき》が有つたなら、切込まうと立構へて居るので、既に数回の太
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