かく右の扉の外に立って、しっかりと真鍮《しんちゅう》の丸棒を攫《つか》んだ。ふと車中を見たかれははッとして驚いた。そのガラス窓を隔ててすぐそこに、信濃町《しなのまち》で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧《お》しつけられるようになって、ちょうど烏《からす》の群れに取り巻かれた鳩《はと》といったようなふうになって乗っている。
美しい眼、美しい手、美しい髪、どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかとすぐ思った。誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、たまらなく口惜しく情けなくなってその結婚の日はいつだか知らぬが、その日は呪《のろ》うべき日だと思った。白い襟首《えりくび》、黒い髪、鶯茶《うぐいすちゃ》のリボン、白魚のようなきれいな指、宝石入りの金の指輪――乗客が混《こみ》合っているのとガラス越しになっているのとを都合のよいことにして、かれは心ゆくまでその美しい姿に魂を打ち込んでしまった。
水道橋、飯田町、乗客はいよいよ多い。牛込《うしごめ》に来ると、ほとんど車台の外に押し出されそうになった。か
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