れは真鍮の棒につかまって、しかも眼を令嬢の姿から離さず、うっとりとしてみずからわれを忘れるというふうであったが、市谷に来た時、また五、六の乗客があったので、押しつけて押しかえしてはいるけれど、ややともすると、身が車外に突き出されそうになる。電線のうなりが遠くから聞こえてきて、なんとなくあたりが騒々しい。ピイと発車の笛が鳴って、車台が一、二間ほど出て、急にまたその速力が早められた時、どうした機会《はずみ》か少なくとも横にいた乗客の二、三が中心を失って倒れかかってきたためでもあろうが、令嬢の美にうっとりとしていたかれの手が真鍮の棒から離れたと同時に、その大きな体はみごとにとんぼがえりを打って、なんのことはない大きな毬《まり》のように、ころころと線路の上に転《ころ》がり落ちた。危《あぶ》ないと車掌が絶叫したのも遅《おそ》し早し、上りの電車が運悪く地を撼《うご》かしてやってきたので、たちまちその黒い大きい一塊物は、あなやという間に、三、四間ずるずると引《ひ》き摺《ず》られて、紅《あか》い血が一線《ひとすじ》長くレールを染めた。
非常警笛が空気を劈《つんざ》いてけたたましく鳴った。
底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
青空文庫作成ファイル:
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