たりにくつきりと見せながら、「おかけになるんですね?」かう軽く言つて、そしてBをその背後にある電話室の方へと伴れて行つた。
それはBに取つて持つて来いの電話室であつた。そこには二十燭ほどの電気がついてゐて、その戸を排して中に入れば、何んな秘密な話をしようが、外からそれを立聞きされる憂《うれひ》は少しもなかつた。それに、女中にしても、ホテルだけにさつぱりしてゐた。そこを案内するとそのまゝすぐ元の方へと引返して行つた。
電話の番号は、かの女が大連の旅舎あてによこした手紙で、ちやんと知つてゐたけれども、念のため、そこに置いてある電話帳を繰つて、そのゐる家に当てはめてから、Bは躍る心を押へつゝ徐《しづ》かに把手《ハンドル》を廻した。ベルがあたりの静かな空気にけたゝましく響きわたつてきこえた。
「二十三番――」
かう呼出すと、すぐ通じて、向うから女中らしい声がきこえて来た。
「どなたで御座いますか。は、は、さやうで御座います。武蔵野で御座います。時子さんで御座いますか? あなたはどなた? Bさん……? ちよつとお待ち下さいまし」かう言つて引込んで行つたが、つゞいてすぐ女が代つて出て来たらしかつた。
「お! 時子!」
「あなたはBさん、まア――」その電話はかう言つたが、何でも電話のあるところが端近《はしぢか》で、言ひたいことも思ひ切つて言へないといふ風で、暫く絶句してゐたが、いくらか、小声になつて、「待つてゐたんですの。いつおつきになりましたの?」
忘れられないその声がなつかしく体中に染み込んで行くのをBは感じながら、「今日の昼頃ついたんだがね? 今まで客があつて、電話をかけるひまさへなかつたんだよ」
「さうですか。何うしたんだらう? もうゐらつしやりさうなもんだ。此間のお手紙では、是非もうお着きにならなけりやならない。何うかなすつたんぢやないかしら? ハルピンにはお出でにならないやうになつて了つたんぢやないかしらと思つてゐたんですの……。今も思つてゐたところなの、私うれしい……」その声は低く微かに、いかなる音楽もそれほど強く体に心に染みわたるものはないやうにBの耳に伝へられて来た。
しばしは両方で黙つた。しかしこの沈黙は千万言にも尚ほ勝るほどの感動を二人に与へた。二人の間には心と心とがぴたりと合つた。体と体とがぴたりと触れた。その中間に電話の線が横つてゐるなどは思へ
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