ないものですね」かう言れた時、Bは、「だつて、君、かういふことがあるよ、いかに砕けたものでも、他に本当に恋したものがあれば、その女の心と一緒になつてゐれば、他に手が出したくつたつて出せないぢやないか。いや、僕にさういふ女があるか、何うか、それは此処には言はないけれども、もしさうだつたとすれば、僕が今他の女に手を出さないのも無理はないぢやないか。何しろ、その女が現に僕と一緒にゐるんだもの……。僕と一緒に歩いてゐるんだもの。ホテルに泊つて、ダブルベツトでさびしいだらうなどゝ君達は言ふかも知れないけれども、そこはねえ、君、ちやんと毎夜来て一緒に寝てゐるんだもの……」こんなことを言つて大勢の人達を煙《けむ》に巻いたことを繰返した。
※[#始め二重括弧、1−2−54]しかし、今夜こそは、本当に、かの女が来る。あの飽きも飽かれもせずに別れた時子が来る※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう思ふと、Bはもう一刻もぢつとしてはゐられなかつた。かれはそのまま巻煙草を捨てゝ身を起した。

         二

 かれはしんとした長い廊下を静かに歩いて行つた。胸は一大事にでも臨んだものゝやうにわく/\した。※[#始め二重括弧、1−2−54]うまくゐて呉れゝば好いがな? 此方《こつち》が来るのは知つてゐるのだから、すぐ電話をかける筈になつてゐるのだから、大抵その心構へをして待つてゐるだらうけれども、ゐれば好いがな……。何処かに出てゐはしないかな?※[#終わり二重括弧、1−2−55]かう思ふと、いくらか不安にはなつて来た。しかし、大連あてにかれによこしたかの女の手紙の文句がしつかりとかれの心に絡み着いてゐるので、別にそれほど強く感じもしなかつた。たとひ今はゐなくとも、今夜は逢へるといふ自信がかれの心の底にはつきりと棒のやうに横《よこたは》つてゐた。
 廊下のつき当つたところが、ボオイや女中のゐるところになつてゐた。そこに静かに灯《ひ》が漲つてゐるのをBは目にした。しかしハルピンは今頃は客がないと見えて、あたりはひつそりとしてゐた。大きなサボテンや葉蘭の鉢が硝子の中にくつきりと見えてゐた。
 さつきの女中がBの跫音をきいて、そこから顔を出した。
「――――?」
「電話は三階にもあるんだらうね?」
 Bは落着いた態度で訊いた。
「御座います――――」
「何処だね?」
 女中は蒼白い小さな顔をあ
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