握手するなり、思ふまゝに振舞はずにはゐられないだらうと思つたものであつたが――接吻なり何なりあらゆるパツシヨンネイトな表現を互ひに即座に現はさずにはゐられまいと思つてやつて来たものであつたが、しかも、いざ相対したとなつては、とてもそんなことの出来ないものであることをBは痛感した。沈黙――それが何よりの言葉だ。また何よりの深い情の表現だ。
 女中は案内がすむとすぐ出て行つて了つた。
 二人は尚ほ暫く黙つてゐたが、やがて女は涙を目に一杯ためて、二三滴膝の上に溢れ落ちるのをそのまゝにして――しかも強ひて笑つて、「だつてしようがないんですもの……御免なさい!」
「………………」
 Bもつとめて涙を押へるやうにした。
「しようがないのね。意気地《いくぢ》がないのね。貴方、可笑しいでせう?」涙顔《るいがん》を拭きもせずそのまゝで笑つて、「だつて、三年の後《あと》でこんなところで御目にかゝつたんですものね。よく忘れずにゐて下すつたのね? 私がわるかつたのに――」
「……………………」
「さつきの電話で、貴方の声を聞いた時にはわく/\して了つたんですもの……。変だつたでせう?」
「それに、あの電話のわきに皆ながゐるんだらう?」
「それもあるんですけれどもね。そんなことは構はなかつたんですけれども……。これで私あそこでは割に自由にしてゐますの。義理でも叔母は叔母ですからね。それよりも、唯、わく/\して言葉も何も出ないんですもの……。変なものですね。嬉しいんだか、悲しいんだか、何も彼《か》もごつちやになつて了つたんですもの」
「僕だつて、さうだつたよ」Bはやつとこれだけを言つた。
 再び紅茶を持つて女中が入つて来た時には、最早二人は相対して椅子に腰をかけて徐かにしてゐた。割合に普通の話を取交してゐた。
「それにしても、此方《こつち》はいやに冷《ひや》つくね。もう六月だつていふのに、袷《あはせ》では寒いね!」
「それはさうですとも……。やつと此方《こちら》は春の好い陽気になつたばかりですもの……。アカシヤの花がやつと咲き出したばかりなんですもの。今までは……ねえ、お春さん――」女中を顧みて、「丸で内にばかり籠り切りで暮してゐたんですもの。ハルピンはこれからですよ。公園などにもこの頃やうやくロシアの女が出るやうになつたんですもの――」
「本当で御座いますねえ! やつと冬から出て来たばかし―
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