くなる二つの心と体とではないか。それは世話になつてゐる人に対しては罪ではあるが、その罪は赦さるべきではないか。四五日後にはいかに燃えても再び相見ることが出来ないといふことで許さるべきではないか。否、考へるともなくさうした考へに耽《ふけ》つた時には、Bは何とも言はれない悲哀に落ちずにはゐられなかつた。さういふ風に触れ合つた二つの心が、この世の運命といふものゝために、再び遠く離れ去らなければならないことを考へた時には、かれは深く、一層深く恋愛の淵に臨んだやうな気がした。
突然、かれは軽いスリツパの音の遠くからきこえて来るのを聞いたやうに思つた。かれははつとして耳を欹《そばだ》てた。次第にそれは階段から廊下の方へと近寄つて来る跫音だといふことがわかつた。しかしそれはひとつの跫音ではなかつた。何か女同志が囁き合ひながら歩いて来てゐるのであつた。いきなりBは全身に強い衝動を感じた。かれはかの女の気勢《けはひ》と声とを感じたのである。
「この室《へや》ですね?」
(さうです)
さうした声が耳に入つたと思ふと、扉《ドア》の把手《ハンドル》がぐるりと廻つて、さつきの女中の小づくりな蒼白い顔がひよいと見えて、その向うに、色の白い、眼のぱつちりした――その眼から額へかけては、何遍夢に見たか知れないその時子の顔が笑《ゑみ》を含んで此方《こちら》を見てゐるのをBははつきりと見た。
Bは急いで起上《たちあが》つた。そしてそつちへ二三歩近寄つた。
「お!」
「まア、貴方!」
女中が見てゐなかつたら、かれ等は互ひに抱き合つたかも知れなかつた。Bは時子の眼の中に光つたものを見ると同時に、かれの眼にも熱いものが溢れて来るのを感じた。時子は何方《どちら》かと言へばじみなつくりをしてゐた。以前から派手なのが嫌ひで、まだ若いのにあまり年増づくりだなどと言はれたのであつたが、その好みは今でも変らないらしく、黒繻子の帯に素銅《すあか》の二疋鮎の刻《ほり》のしてある帯留などをしてゐた。髪は前の大きく出た割合に旧式な束髪にしてゐた。それにも拘らず、そのすらりした姿は、明るい室《へや》の夜の光線の中にくつきりと浮び上つて見えた。
時子は椅子にも腰かけず、ぢつと立つてかれの方を見詰めた。Bも何と言つて好いかわからなかつた。かうして相対しない以前にあつては、行つたならば誰がゐたつて構ふことはない、抱擁するなり
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