その人のためにもさういふことは出来ないよ……」かう言つてすたすた帰つて来たことをBは思ひ起した。あとでは皆なは唖然としてあつけに取られてゐたに相違なかつた。しかしそれは単なる戯談ではなかつたのである。Bはその眉を、その髪を、その額を、その眼を常に到るところに感じた。否、旅に出て日を経るに随つて、一層その面影の濃《こま》やかになつて来ることを感じたのである。Bは夫人の中《うち》にも徳子といふその妓《おんな》の中《うち》にもそれを発見せずにはゐられなかつたのである。
 まだ頻りに悲鳴を挙げてゐる犬の声に耳を留めたKは、
「あれは犬ですかね? さつきから鳴いてゐますが――?」
「さうです――さびしがつて鳴いてゐるんです。大きな犬ですよ」
 かう言つてBはH夫妻のことをKに話した。Bはさつき食堂で晩餐の卓についた時、すぐその前にH夫妻がゐて、夫人とは言葉を交はさなかつたけれども、H氏とは種々《いろ/\》と話をしたことを思ひ起した。夫人がきまりがわるさうに黙つてフオークを運んでゐたさまを思ひ起した。「あれで、犬といふ奴は中々役に立ちましてな、あゝいふところに参るには、護身のためにも必要で御座いま
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