『もう大事ない。』
 愈々明日は出發と言ふので、其夜は其處でも此處でも酒宴が始まつた。若い男と若い娘とは彼方此方と戯れて歩いた。テントは山裾の林を賑やかにした。
 滯在なしの三日路の樂しい旅はやがてその翌日から始まつた。最初の日は雨、次の日はからりと晴れたが、思ひもかけないほどの寒さで、山の雪は既に近くかれ等の路に迫つて來てゐた。しかしかれ等の樂しい心を曇らせるものは何もなかつた。子供達まで、明日は國に歸れると言ふので勇み勇んで嶮しい高い山路を登つた。
 三日目の午後には、かれ等の部落の見えるある峠の上へと一行は近づきつゝあつた。足の達者なものは、我先にと山路を走つて、一散にその峠の上へと登つて行つた。三人四人五人、手を擧げて叫んでゐるのが下から仰いで見られた。誰ももうじつとしては居られなかつた。女達子供達も老人達も一散につづいて驅け上つた。歡呼の聲は一時峠の空氣を震はせた。かれ等の眼下には、白いテントが林から林へと一面に張られてあるのが見えた。



底本:「定本 花袋全集 第七巻」臨川書店
   1993(平成5)年10月10日復刻版発行
底本の親本:「定本 花袋全集 第七巻」内外書籍
   1936(昭和11)年8月16日初版発行
※底本97頁14行目に見る「網のついた籠を指した。」の「指」は、底本の親本初版で判読が困難なほど欠けており、これを覆刻した底本でも同様の状態にありました。複数の底本と底本の親本を見比べ、文脈からの推測も交えて、このファイルでは当該箇所に「指」を入れました。
※「羊腸」と「羊膓」の混在は、底本のママとしました。
※濁点の有無に統一性を欠く「くの字点」の用法は、底本のママとしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:もんむー
校正:松永正敏
2002年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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