で、其處まで行つたならば、その人達はもう先に其處に行つてゐて此方の來るのを遲いと言つてゐるだらうと思つて來たのであつた。『何してゐるんだんべ。』かう誰も彼も言つた。
『まだ遲いでねえから、ゆつくら、此處等で遊んで行くが好い。此處まで來ればもう國に歸つたも同じだでな。』
『ほんにな。』
人達は遠い山の中にゐて、何遍この海の見える宿泊地を夢に見たか知れなかつた。南部に行つて一年歸つて來なかつた老婦は、息子のことを思ひ出したと見えて堪らないといふやうにして涙を流してゐた。
その宿泊地から山に入つて行かうとするところには、地藏尊が一つさびしさうにして立つてゐた。それはかれ等山に行くものの常に道路の平安を祈るところで、そこは大きい小さい石が常に澤山に供へられてあつた。老婦の息子も、矢張一昨年此處で石を供へて行つた。
『何うしてもあきらめられねえ。』
『さうだんべなあ。』平公の若い嚊はさも同情に堪へないやうにして言つた。
『俺ア、あの時、一緒に死んで了へば好かつた。』
『でもな、國へ行けば、娘衆もあるしな、親類もあんべいし……死んだものをいくら考へたッて仕方がねえだでな。』
『俺ア何うすべいな。』老婦は猶も泣いた。
それは三日目の午後五時すぎであつた。山はすつかり晴れて、後の山に白い雲が一片かゝつてゐるばかり、襞といふ襞、谷といふ谷はすべて一目に見渡された。ふと、ある男が叫び出した。
『來た! 來た!』
續いて三人も四人も叫んだ。『來た! 來た! 木曾の衆が來た!』
その叫聲はそれからそれへと瞬く間に傳はつて行つた。『來た! 來た!』總ての人達は唄か何ぞを唄ふやうにして、調子を取つて踊り上つた。
山の襞に添うた羊膓とした路、それを桐油を着た十五六人の同勢が並んで此方へ下りて來るのが夕日を帶びて明かに見えた。林にかくれ、岩角にあらはれ、再び隱れ再び現はれて、次第に此方へ此方へと近づいて下りて來た。山裾の林の葉は既に落ちて、熊笹の葉がガサガサと鳴つた。
若者を先に立てゝ、老人達は林の角まで迎へに行つた。
『お無事ぢやつたか?』
『お無事か?』
かういふ言葉は、頭領と頭領との間に取換された。
『いつ來さしやつた? もつと早く來べい思つたが、病人があつたでな。』
『さうか、道理で遲いと思つた。誰だ? 病人は?』
『國の野郎だ。』
『それはいかんぢやつたな。もう好いか。』
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