かういふ鹿や猪は澤山にゐたもんだがな。今ぢや、もう滅多にやゐねえ。こんなに大きいのはめづらしいや。それと言ふのも、山が開けたからぢや。今ぢやもう此處等には、好い木さへなくなつた。それから思ふと、昔は好かつた。何をしようが、今のやうにやかましく咎められるやうなことはねえし、鳥でも獸でも澤山にゐたし、里に下りて行つたツてサアベルなんかにおどかされるやうなこともねえ……。近い山ぢやもう旨いことはねえだ。』老人達はかう言つて、昔の山の話をした。
 そこの谷合から高原へ出て、それからまた山を越した一行は、漸く故郷を去ること餘り遠くないあたりまで來てゐた。あるところでは、三日ほど雨に降りつゞけられて、佗しくテントの中に蹲踞つて暮した。其處では、かれ等は雨を犯して此方へやつて來た群と落合ふことが出來た。
 ある時は、途中で日が暮れて、大きな峠を越えて行かなければならなかつた。それは山から山を越して、遠くに、町、村、野、更に遠くに海を見るといふやうなところであつた。割合に、かれ等は町や里近くへと出て來てゐた。わるい路を辛うじて峠へ登りついた一行は、下に遠く町家の灯のついてゐるのを見た。山と山との峽から見える町は、中でもことに灯が美しかつた。突然遠くの暗い闇の野を、灯の長くつゞいたものゝ動くのを見た。
『汽車!』
『それ、汽車が行く……』
 一行は皆な其方を見た。ひろい野には、長蛇のやうな汽車が徐かに動いて行くのであつた。『汽車! 汽車。』かう言つて、皆な其方の方を眺めた。
 そこから一里ほど行つた宿泊地に着いて、その夜は一行は慌たゞしくテントを吊つて寢たが、夜の明けた時には、山を越し野を越して、遙かに碧い渺茫とした海の繪のやうに展開されてあるのを見た。島の連つた彼方には白帆が靜かにあやつり人形のやうに動いた。
 これはもう故郷の近い徴であつた。故郷を出て三日路、其處でかれ等はいつもこの遠い海の光を見て、それから深い深い際限のない山の中に入つて行くのであつた。『海が見える……海が見える……。』かう言つた人達の胸には、やがて來る一年一度の歸國の宴が樂しく歴々と描かれてゐた。
 もう人達は落附いて仕事をしてゐられなくなつた。若者も娘達も夫婦連も、皆な一齊に、一刻も早く歸國を望んだ。
 しかし一行はまだ其處で後れたある一つの群を待たなければならなかつた。それは木曾の方の山に入つて行つた人達
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