聞いていた。父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかった。その白縞《しろしま》の袴《はかま》を着け、紺がすりの羽織を着た書生姿は、軽蔑《けいべつ》の念と憎悪《ぞうお》の念とをその胸に漲《みなぎ》らしめた。その所有物を奪った憎むべき男という感は、曽《か》つて時雄がその下宿でこの男を見た時の感と甚だよく似ていた。
 田中は袴の襞《ひだ》を正して、しゃんと坐ったまま、多く二尺先位の畳をのみ見ていた。服従という態度よりも反抗という態度が歴々《ありあり》としていた。どうも少し固くなり過ぎて、芳子を自分の自由にする或る権利を持っているという風に見えていた。
 談話は真面目《まじめ》にかつ烈しかった。父親はその破廉恥《はれんち》を敢《あえ》て正面から責めはしないが、おりおり苦《にが》い皮肉をその言葉の中に交えた。初めは時雄が口を切ったが、中頃から重《おも》に父親と田中とが語った。父親は県会議員をした人だけあって、言葉の抑揚《よくよう》頓挫《とんざ》が中々巧みであった。演説に慣れた田中も時々沈黙させられた。二人の恋の許可不許可も問題に上ったが、それは今研究すべき題目でないとして却《しりぞ》けられ、当面の京都帰還問題が論ぜられた。
 恋する二人――殊《こと》に男に取っては、この分離は甚だ辛《つら》いらしかった。男は宗教的資格を全く失ったということ、帰るべく家をも国をも持たぬということ、二三月来|飄零《ひょうれい》の結果|漸《ようや》く東京に前途の光明を認め始めたのに、それを捨てて去るに忍びぬということなぞを楯《たて》として、頻りに帰国の不可能を主張した。
 父親は懇々として説いた。
「今更京都に帰れないという、それは帰れないに違いない。けれど今の場合である。愛する女子ならその女子の為めに犠牲になれぬということはあるまいじゃ。京都に帰れないから田舎に帰る。帰れば自分の目的が達せられぬというが、其処を言うのじゃ。其処を犠牲になっても好かろうと言うのじゃ」
 田中は黙して下を向いた。容易に諾《だく》しそうにも無い。
 先程から黙って聞いていた時雄は、男が余りに頑固なのに、急に声を励《はげま》して、「君、僕は先程から聞いていたが、あれほどに言うお父さんの言葉が解らんですか。お父さんは、君の罪をも問わず、破廉恥をも問わず、将来もし縁があったら、この恋愛を承諾せぬではない。君もまだ年が若い、芳子さんも今修業最中である。だから二人は今暫くこの恋愛問題を未解決の中《うち》にそのままにしておいて、そしてその行末を見ようと言うのが解らんですか。今の場合、二人はどうしても一緒には置かれぬ。何方《どっち》かこの東京を去らなくってはならん。この東京を去るということに就いては、君が先ず去るのが至当だ。何故かと謂《い》えば、君は芳子の後を追うて来たのだから」
「よう解っております」と田中は答えた。「私が万事悪いのでございますから、私が一番に去らなければなりません。先生は今、この恋愛を承諾して下されぬではないと仰《おっ》しゃったが、お父様の先程の御言葉では、まだ満足致されぬような訳でして……」
「どういう意味です」
 と時雄は反問した。
「本当に約束せぬというのが不満だと言うのですじゃろう」と、父親は言葉を入れて、「けれど、これは先程もよく話した筈《はず》じゃけえ。今の場合、許可、不許可という事は出来ぬじゃ。独立することも出来ぬ修業中の身で、二人一緒にこの世の中に立って行こうと言《い》やるは、どうも不信用じゃ。だから私は今三四年はお互に勉強するが好いじゃと思う。真面目ならば、こうまで言った話は解らんけりゃならん。私が一時を瞞着《まんちゃく》して、芳を他《よそ》に嫁《かたづ》けるとか言うのやなら、それは不満足じゃろう。けれど私は神に誓って言う、先生を前に置いて言う、三年は芳を私から進んで嫁にやるようなことはせんじゃ。人の世はエホバの思召《おぼしめし》次第、罪の多い人間はその力ある審判《さばき》を待つより他《ほか》に為方《しかた》が無いけえ、私は芳は君に進ずるとまでは言うことは出来ん。今の心が許さんけえ、今度のことは、神の思召に適《かな》っていないと思うけえ。三年|経《た》って、神の思召に適うかどうか、それは今から予言は出来んが、君の心が、真実真面目で誠実であったなら、必ず神の思召に適うことと思うじゃ」
「あれほどお父さんが解っていらっしゃる」と時雄は父親の言葉を受けて、「三年、君が為めに待つ。君を信用するに足りる三年の時日を君に与えると言われたのは、実にこの上ない恩恵《めぐみ》でしょう。人の娘を誘惑するような奴《やつ》には真面目に話をする必要がないといって、このまま芳子をつれて帰られても、君は一言も恨むせきはないのですのに、三年待とう、君の真心の見えるまでは、芳子を他に嫁けるようなことはすまいと言う。実に恩恵ある言葉だ。許可すると言ったより一層恩義が深い。君はこれが解らんですか」
 田中は低頭《うつむ》いて顔をしかめると思ったら、涙がはらはらとその頬《ほお》を伝った。
 一座は水を打ったように静かになった。
 田中は溢《あふ》れ出《い》ずる涙を手の拳《こぶし》で拭《ぬぐ》った。時雄は今ぞ時と、
「どうです、返事を為給《したま》え」
「私などはどうなっても好うおます。田舎に埋れても構わんどす!」
 また涙を拭った。
「それではいかん。そう反抗的に言ったって為方がない。腹の底を打明けて、互に不満足のないようにしようとする為めのこの会合です。君は達《た》って、田舎に帰るのが厭《いや》だとならば、芳子を国に帰すばかりです」
「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」
「それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん」
「それでは田舎に埋れてもようおます!」
「いいえ、私が帰ります」と芳子も涙に声を震わして、「私は女……女です……貴方さえ成功して下されば、私は田舎に埋れても構やしません、私が帰ります」
 一座はまた沈黙に落ちた。
 暫くしてから、時雄は調子を改めて、
「それにしても、君はどうして京都に帰れんのです。神戸の恩人に一伍一什《いちぶしじゅう》を話して、今までの不心得を謝して、同志社に戻ったら好いじゃありませんか。芳子さんが文学志願だから、君も文学家にならんければならんというようなことはない。宗教家として、神学者として、牧師として大《おおい》に立ったなら好いでしょう」
「宗教家にはもうとてもようなりまへん。人に対《むか》って教を説くような豪《えら》い人間ではないでおますで。……それに、残念ですのは、三月の間苦労しまして、実は漸《ようや》くある親友の世話で、衣食の道が開けましたで、……田舎に埋れるには忍びまへんで」
 三人は猶《なお》語った。話は遂に一小段落を告げた。田中は今夜親友に相談して、明日か明後日までに確乎《かっこ》たる返事を齎《もた》らそうと言って、一先《ひとま》ず帰った。時計はもう午後四時、冬の日は暮近く、今まで室の一隅に照っていた日影もいつか消えて了《しま》った。

 一室は父親と時雄の二人になった。
「どうも煮えきらない男ですわい」と父親はそれとなく言った。
「どうも形式的で、甚だ要領を得んです。もう少し打明けて、ざっくばらんに話してくれると好いですけれど……」
「どうも中国の人間はそうは行かんですけえ、人物が小さくって、小細工で、すぐ人の股《また》を潜《くぐ》ろうとするですわい。関東から東北の人はまるで違うですがナア。悪いのは悪い、好いのは好いと、真情を吐露して了うけえ、好いですけどもナ。どうもいかん。小細工で、小理窟《こりくつ》で、めそめそ泣きおった……」
「どうもそういうところがありますナ」
「見ていさっしゃい、明日きっと快諾しゃあせんけえ、何のかのと理窟をつけて、帰るまいとするけえ」
 時雄の胸に、ふと二人の関係に就いての疑惑が起った。男の烈《はげ》しい主張と芳子を己《おの》が所有とする権利があるような態度とは、時雄にこの疑惑を起さしむるの動機となったのである。
「で、二人の間の関係をどう御観察なすったです」
 時雄は父親に問うた。
「そうですな。関係があると思わんけりゃなりますまい」
「今の際、確めておく必要があると思うですが、芳子さんに、嵯峨行《さがゆき》の弁解をさせましょうか。今度の恋は嵯峨行の後に始めて感じたことだと言うてましたから、その証拠になる手紙があるでしょうから」
「まア、其処までせんでも……」
 父親は関係を信じつつもその事実となるのを恐れるらしい。
 運悪く其処に芳子は茶を運んで来た。
 時雄は呼留めて、その証拠になる手紙があるだろう、その身の潔白を証する為めに、その前後の手紙を見せ給えと迫った。
 これを聞いた芳子の顔は俄《にわ》かに赧《あか》くなった。さも困ったという風が歴々《ありあり》として顔と態度とに顕《あら》われた。
「あの頃の手紙はこの間皆な焼いて了いましたから」その声は低かった。
「焼いた?」
「ええ」
 芳子は顔を俛《た》れた。
「焼いた? そんなことは無いでしょう」
 芳子の顔は愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》赧《あか》くなった。時雄は激さざるを得なかった。事実は恐しい力でかれの胸を刺した。
 時雄は立って厠《かわや》に行った。胸は苛々《いらいら》して、頭脳《あたま》は眩惑《げんわく》するように感じた。欺かれたという念が烈しく心頭を衝《つ》いて起った。厠を出ると、其処に――障子の外に、芳子はおどおどした様子で立っている。
「先生――本当に、私は焼いて了ったのですから」
「うそをお言いなさい」と、時雄は叱《しか》るように言って、障子を烈しく閉めて室内に入った。

        九

 父親は夕飯の馳走《ちそう》になって旅宿に帰った。時雄のその夜の煩悶《はんもん》は非常であった。欺かれたと思うと、業《ごう》が煮えて為方がない。否、芳子の霊と肉――その全部を一書生に奪われながら、とにかくその恋に就いて真面目《まじめ》に尽したかと思うと腹が立つ。その位なら、――あの男に身を任せていた位なら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買えば好かった。こう思うと、今まで上天の境《きょう》に置いた美しい芳子は、売女《ばいじょ》か何ぞのように思われて、その体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜は悶《もだ》え悶えて殆《ほとん》ど眠られなかった。様々の感情が黒雲のように胸を通った。その胸に手を当てて時雄は考えた。いっそこうしてくれようかと思うた。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、種々《いろいろ》なことが頭脳《あたま》に浮ぶ。芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬《やるせ》なき恋を語ったらどうであろう。危座《きざ》して自分を諌《いさ》めるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。それとも又せつない自分の情を汲《く》んで犠牲になってくれるかも知れぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明かな日光を見ては、さすがに顔を合せるにも忍びぬに相違ない。日|長《た》けるまで、朝飯をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モウパッサンの「父」という短篇を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後烈しく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それを又今思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛《さかん》にそれと争った。で、煩悶《はんもん》又煩悶、懊悩《おうのう》また懊悩、寝返を幾度となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた。
 芳子も煩悶したに相違なかった。朝起きた時は蒼《あお》い顔を為《し》ていた。朝飯をも一|椀《わん》で止した。なるたけ時雄の顔に逢うのを避けている様子であった。芳子の煩悶はその秘密を知られたというよりも、それを隠しておいた非を悟った煩悶であったらしい。午後にちょっと出
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