愛、肉の恋愛、恋愛と人生との関係、教育ある新しい女の当《まさ》に守るべきことなどに就いて、切実にかつ真摯《しんし》に教訓した。古人が女子の節操を誡《いまし》めたのは社会道徳の制裁よりは、寧《むし》ろ女子の独立を保護する為であるということ、一度肉を男子に許せば女子の自由が全く破れるということ、西洋の女子はよくこの間の消息を解しているから、男女交際をして不都合がないということ、日本の新しい婦人も是非ともそうならなければならぬということなど主《おも》なる教訓の題目であったが、殊に新派の女子ということに就いて痛切に語った。
芳子は低頭《うつむ》いてきいていた。
時雄は興に乗じて、
「そして一体、どうして生活しようというのです?」
「少しは準備もして来たんでしょう、一月位は好いでしょうけれど……」
「何か旨《うま》い口でもあると好いけれど」と時雄は言った。
「実は先生に御縋《おすが》り申して、誰も知ってるものがないのに出て参りましたのですから、大層失望しましたのですけれど」
「だッて余り突飛だ。一昨日逢ってもそう思ったが、どうもあれでも困るね」
と時雄は笑った。
「どうか又御心配下さるように……この上御心配かけては申訳がありませんけれど」と芳子は縋るようにして顔を赧《あから》めた。
「心配せん方が好い、どうかなるよ」
芳子が出て行った後、時雄は急に険《けわ》しい難かしい顔に成った。「自分に……自分に、この恋の世話が出来るだろうか」と独《ひと》りで胸に反問した。「若い鳥は若い鳥でなくては駄目だ。自分等はもうこの若い鳥を引く美しい羽を持っていない」こう思うと、言うに言われぬ寂しさがひしと胸を襲った。「妻と子――家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供の為めに生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞《せきばく》たらざるを得るか」時雄はじっと洋燈《ランプ》を見た。
机の上にはモウパッサンの「死よりも強し」が開かれてあった。
二三日|経《た》って後、時雄は例刻に社から帰って火鉢《ひばち》の前に坐ると、細君が小声で、
「今日来てよ」
「誰が」
「二階の……そら芳子さんの好い人」
細君は笑った。
「そうか……」
「今日一時頃、御免なさいと玄関に来た人があるですから、私が出て見ると、顔の丸い、絣《かすり》の羽織を着た、白縞《しろしま》の袴《はかま》を穿《は》いた書生さんが居るじゃありませんか。また、原稿でも持って来た書生さんかと思ったら、横山さんは此方《こちら》においでですかと言うじゃありませんか。はて、不思議だと思ったけれど、名を聞きますと、田中……。はア、それでその人だナと思ったんですよ。厭な人ねえ、あんな人を、あんな書生さんを恋人にしないたッて、いくらも好いのがあるでしょうに。芳子さんは余程物好きね。あれじゃとても望みはありませんよ」
「それでどうした?」
「芳子さんは嬉《うれ》しいんでしょうけど、何だか極《きま》りが悪そうでしたよ。私がお茶を持って行って上げると、芳子さんは机の前に坐っている。その前にその人が居て、今まで何か話していたのを急に止して黙ってしまった。私は変だからすぐ下りて来たですがね、……何だか変ね、……今の若い人はよくああいうことが出来てね、私のその頃には男に見られるのすら恥かしくって恥かしくって為方《しかた》がなかったものですのに……」
「時代が違うからナ」
「いくら時代が違っても、余り新派過ぎると思いましたよ。堕落書生と同じですからね。それゃうわべが似ているだけで、心はそんなことはないでしょうけれど、何だか変ですよ」
「そんなことはどうでも好い。それでどうした?」
「お鶴(下女)が行って上げると言うのに、好いと言って、御自分で出かけて、餅菓子《もちがし》と焼芋《やきいも》を買って来て、御馳走《ごちそう》してよ。……お鶴も笑っていましたよ。お湯をさしに上ると、二人でお旨《い》しそうにおさつを食べているところでしたッて……」
時雄も笑わざるを得なかった。
細君は猶《なお》語り続《つ》いだ。「そして随分長く高い声で話していましたよ。議論みたいなことも言って、芳子さんもなかなか負けない様子でした」
「そしていつ帰った?」
「もう少し以前《さっき》」
「芳子は居るか」
「いいえ、路《みち》が分からないから、一緒に其処《そこ》まで送って行って来るッて出懸《でか》けて行ったんですよ」
時雄は顔を曇らせた。
夕飯を食っていると、裏口から芳子が帰って来た。急いで走って来たと覚しく、せいせい息を切っている。
「何処《どこ》まで行らしった?」
と細君が問うと、
「神楽坂《かぐらざか》まで」と答えたが、いつもする「おかえりなさいまし」を時雄に向って言って、そのままばたばたと二階へ上った。すぐ下りて来るかと思うに、なかなか下りて来ない。「芳子さん、芳子さん」と三度ほど細君が呼ぶと、「はアーい」という長い返事が聞えて、矢張下りて来ない。お鶴が迎いに行って漸《ようや》く二階を下りて来たが、準備した夕飯の膳を他所《よそ》に、柱に近く、斜《はす》に坐った。
「御飯は?」
「もう食べたくないの、腹《おなか》が一杯で」
「余りおさつを召上った故《せい》でしょう」
「あら、まア、酷《ひど》い奥さん。いいわ、奥さん」
と睨《にら》む真似《まね》をする。
細君は笑って、
「芳子さん、何だか変ね」
「何故《なぜ》?」と長く引張る。
「何故でも無いわ」
「いいことよ、奥さん」
と又睨んだ。
時雄は黙ってこの嬌態《きょうたい》に対していた。胸の騒ぐのは無論である。不快の情はひしと押し寄せて来た。芳子はちらと時雄の顔を覗《うかが》ったが、その不機嫌《ふきげん》なのが一目で解った。で、すぐ態度を改めて、
「先生、今日田中が参りましてね」
「そうだってね」
「お目にかかってお礼を申上げなければならんのですけれども、又改めて上がりますからッて……よろしく申上げて……」
「そうか」
と言ったが、そのままふいと立って書斎に入って了った。
その恋人が東京に居ては、仮令《たとい》自分が芳子をその二階に置いて監督しても、時雄は心を安んずる暇はなかった。二人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はいつの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。
時雄は常に苛々《いらいら》していた。書かなければならぬ原稿が幾種もある。書肆《しょし》からも催促される。金も欲《ほ》しい。けれどどうしても筆を執って文を綴《つづ》るような沈着《おちつ》いた心の状態にはなれなかった。強《し》いて試みてみることがあっても、考が纒《まとま》らない。本を読んでも二|頁《ページ》も続けて読む気になれない。二人の恋の温かさを見る度《たび》に、胸を燃《もや》して、罪もない細君に当り散らして酒を飲んだ。晩餐《ばんさん》の菜が気に入らぬと云って、御膳《おぜん》を蹴飛《けとば》した。夜は十二時過に酔って帰って来ることもあった。芳子はこの乱暴な不調子な時雄の行為に尠《すく》なからず心を痛めて、「私がいろいろ御心配を懸けるもんですからね、私が悪いんですよ」と詫《わ》びるように細君に言った。芳子はなるたけ手紙の往復を人に見せぬようにし、訪問も三度に一度は学校を休んでこっそり行くようにした。時雄はそれに気が附いて一層懊悩の度を増した。
野は秋も暮れて木枯《こがらし》の風が立った。裏の森の銀杏樹《いちょう》も黄葉《もみじ》して夕の空を美しく彩《いろど》った。垣根道には反《そり》かえった落葉ががさがさと転《ころ》がって行く。鵙《もず》の鳴音《なきごえ》がけたたましく聞える。若い二人の恋が愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》人目に余るようになったのはこの頃であった。時雄は監督上見るに見かねて、芳子を説勧《ときすす》めて、この一伍一什《いちぶしじゅう》を故郷の父母に報ぜしめた。そして時雄もこの恋に関しての長い手紙を芳子の父に寄せた。この場合にも時雄は芳子の感謝の情を十分に贏《か》ち得るように勉《つと》めた。時雄は心を欺いて、――悲壮なる犠牲と称して、この「恋の温情なる保護者」となった。
備中《びっちゅう》の山中から数通の手紙が来た。
七
その翌年の一月には、時雄は地理の用事で、上武の境なる利根《とね》河畔《かはん》に出張していた。彼は昨年の年末からこの地に来ているので、家のこと――芳子のことが殊《こと》に心配になる。さりとて公務を如何《いかん》ともすることが出来なかった。正月になって二日にちょっと帰京したが、その時は次男が歯を病んで、妻と芳子とが頻《しき》りにそれを介抱していた。妻に聞くと、芳子の恋は更に惑溺《わくでき》の度を加えた様子。大晦日《おおみそか》の晩に、田中が生活のたつきを得ず、下宿に帰ることも出来ずに、終夜運転の電車に一夜を過したということ、余り頻繁《ひんぱん》に二人が往来するので、それをそれとなしに注意して芳子と口争いをしたということ、その他種々のことを聞いた。困ったことだと思った。一晩泊って再び利根の河畔に戻った。
今は五日の夜であった。茫《ぼう》とした空に月が暈《かさ》を帯びて、その光が川の中央にきらきらと金を砕いていた。時雄は机の上に一通の封書を展《ひら》いて、深くその事を考えていた。その手紙は今少し前、旅館の下女が置いて行った芳子の筆である。
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先生、
まことに、申訳が御座いません。先生の同情ある御恩は決して一生|経《た》っても忘るることでなく、今もそのお心を思うと、涙が滴《こぼ》るるのです。
父母はあの通りです。先生があのように仰《おっ》しゃって下すっても、旧風《むかしふう》の頑固《かたくな》で、私共の心を汲《く》んでくれようとも致しませず、泣いて訴えましたけれど、許してくれません。母の手紙を見れば泣かずにはおられませんけれど、少しは私の心も汲んでくれても好いと思います。恋とはこう苦しいものかと今つくづく思い当りました。先生、私は決心致しました。聖書にも女は親に離れて夫に従うと御座います通り、私は田中に従おうと存じます。
田中は未《いま》だに生活のたつきを得ませず、準備した金は既に尽き、昨年の暮れは、うらぶれの悲しい生活を送ったので御座います。私はもう見ているに忍びません。国からの補助を受けませんでも、私等は私等二人で出来るまでこの世に生きてみようと思います。先生に御心配を懸けるのは、まことに済みません。監督上、御心配なさるのも御尤《ごもっと》もです。けれど折角先生があのように私等の為めに国の父母をお説き下すったにも係《かかわ》らず、父母は唯無意味に怒ってばかりいて、取合ってくれませんのは、余りと申せば無慈悲です、勘当《かんどう》されても為方《しかた》が御座いません。堕落々々と申して、殆《ほとん》ど歯《よわい》せぬばかりに申しておりますが、私達の恋はそんなに不真面目《ふまじめ》なもので御座いましょうか。それに、家の門地々々と申しますが、私は恋を父母の都合によって致すような旧式の女でないことは先生もお許し下さるでしょう。
先生、
私は決心致しました。昨日上野図書館で女の見習生が入用だという広告がありましたから、応じてみようと思います。二人して一生懸命に働きましたら、まさかに餓《う》えるようなことも御座いますまい。先生のお家にこうして居ますればこそ、先生にも奥様にも御心配を懸けて済まぬので御座います。どうか先生、私の決心をお許し下さい。
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[#地から2字上げ]芳子
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先生 おんもとへ
[#ここで字下げ終わり]
恋の力は遂に二人を深い惑
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