》の三紋《みつもん》の羽織という扮装《いでたち》で、窓際に立尽していた。
発車の時間は刻々に迫った。時雄は二人のこの旅を思い、芳子の将来のことを思った。その身と芳子とは尽きざる縁《えにし》があるように思われる。妻が無ければ、無論自分は芳子を貰ったに相違ない。芳子もまた喜んで自分の妻になったであろう。理想の生活、文学的の生活、堪え難き創作の煩悶《はんもん》をも慰めてくれるだろう。今の荒涼たる胸をも救ってくれる事が出来るだろう。「何故、もう少し早く生れなかったでしょう、私も奥様時分に生れていれば面白かったでしょうに……」と妻に言った芳子の言葉を思い出した。この芳子を妻にするような運命は永久その身に来ぬであろうか。この父親を自分の舅《しゅうと》と呼ぶような時は来ぬだろうか。人生は長い、運命は奇《く》しき力を持っている。処女でないということが――一度節操を破ったということが、却《かえ》って年多く子供ある自分の妻たることを容易ならしむる条件となるかも知れぬ。運命、人生――曽《かつ》て芳子に教えたツルゲネーフの「プニンとバブリン」が時雄の胸に上《のぼ》った。露西亜《ロシア》の卓《すぐ》れた作家の描いた人生の意味が今更のように胸を撲《う》った。
時雄の後に、一群の見送人が居た。その蔭に、柱の傍に、いつ来たか、一箇の古い中折帽を冠った男が立っていた。芳子はこれを認めて胸を轟《とどろ》かした。父親は不快な感を抱いた。けれど、空想に耽《ふけ》って立尽した時雄は、その後にその男が居るのを夢にも知らなかった。
車掌は発車の笛を吹いた。
汽車は動き出した。
十一
さびしい生活、荒涼たる生活は再び時雄の家に音信《おとず》れた。子供を持てあまして喧《やかま》しく叱《しか》る細君の声が耳について、不愉快な感を時雄に与えた。
生活は三年前の旧《むかし》の轍《わだち》にかえったのである。
五日目に、芳子から手紙が来た。いつもの人|懐《なつ》かしい言文一致でなく、礼儀正しい候文《そうろうぶん》で、
「昨夜|恙《つつが》なく帰宅致し候|儘《まま》御安心|被下度《くだされたく》、此《こ》の度《たび》はまことに御忙しき折柄種々御心配ばかり相懸け候うて申訳も無之《これなく》、幾重にも御詫《おわび》申上候、御前に御高恩をも謝し奉り、御詫《おわび》も致し度候いしが、兎角《とかく》は胸迫りて最後の会合すら辞《いな》み候心、お察し被下度候、新橋にての別離、硝子戸《ガラスど》の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候ようの心地致し、今|猶《なお》まざまざと御姿見るのに候、山北辺より雪降り候うて、湛井《たたい》よりの山道十五里、悲しきことのみ思い出《い》で、かの一茶が『これがまアつひの住家か雪五尺』の名句痛切に身にしみ申候、父よりいずれ御礼の文奉り度|存居《ぞんじおり》候えども今日は町の市日《いちび》にて手引き難く、乍失礼《しつれいながら》私より宜敷《よろしく》御礼申上候、まだまだ御目汚し度きこと沢山に有之候えども激しく胸騒ぎ致し候まま今日はこれにて筆|擱《お》き申候」と書いてあった。
時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思い遣《や》った。別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微《かす》かに残ったその人の面影《おもかげ》を偲《しの》ぼうと思ったのである。武蔵野《むさしの》の寒い風の盛《さかん》に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄《すさま》じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、罎《びん》、紅皿《べにざら》、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗《ひきだし》を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂《にお》いを嗅《か》いだ。暫《しばら》くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡《から》げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団《ふとん》――萌黄唐草《もえぎからくさ》の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》の際立《きわだ》って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅《か》いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽《たちま》ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
薄暗い一室、戸外には風が吹暴《ふきあ》れていた。
底本:「蒲団・重右衛門の最後」新潮文庫、新潮社
1952(昭和27)年3月15日発行
1997(平成9)年5月25日72刷
入力:細渕真弓
校正:細渕紀子
2003年1月8日作成
2008年5月4日修正
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