、その希望を述べたのはその翌日の夜であった。如何《いか》に説いても男は帰らぬ。さりとて国へ報知すれば、父母の許さぬのは知れたこと、時宜《じぎ》に由《よ》れば忽《たちま》ち迎いに来ぬとも限らぬ。男も折角ああして出て来たことでもあり二人の間も世の中の男女の恋のように浅く思い浅く恋した訳でもないから、決して汚れた行為などはなく、惑溺するようなことは誓って為ない。文学は難《むず》かしい道、小説を書いて一家を成そうとするのは田中のようなものには出来ぬかも知れねど、同じく将来を進むなら、共に好む道に携わりたい。どうか暫《しばら》くこのままにして東京に置いてくれとの頼み。時雄はこの余儀なき頼みをすげなく却《しりぞ》けることは出来なかった。時雄は京都|嵯峨《さが》に於《お》ける女の行為にその節操を疑ってはいるが、一方には又その弁解をも信じて、この若い二人の間にはまだそんなことはあるまいと思っていた。自分の青年の経験に照らしてみても、神聖なる霊の恋は成立っても肉の恋は決してそう容易に実行されるものではない。で、時雄は惑溺せぬものならば、暫くこのままにしておいて好いと言って、そして縷々《るる》として霊の恋
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